東名高速道路の北、緑台小学校の南に鎮座する。 賀茂氏が奉斎した神社と伝わっている。 2009年2月3日に不審火によって社殿が全焼した |
由緒 相模国 高森神社 日本国土づくりの御祭神 御本殿 御祭神 味須岐高彦根命 由緒 御祭神味須岐高彦根命は、日本に稲作を拡めた加茂族の首長でありました。大国主命の長子として生れ、天照大神が大国主命に国土を献上するようにと天稚彦をつかわした時、和合をもって平和に徹した神で、大和の葛城に鎮座されたのであります。 御祭神は、大変権威の高い神であるとともに日本の国土造りの中心人物でありました。その高彦根命が、いつどんな経過で、この高森に鎮座されたか、明らかではありませんが、おそらく古い時代、葛城にゆかりのある人々がこの地に来て開拓、農耕殖産の道を教え、五穀豊穣を願い、郷里にちなみ、心のよりどころとしてここに高部屋の社を建て、祖神の高彦根命をお祭りしたものと思われます。 加茂族の中心地葛城は、稲作に大変好適地であったばかりでなく、国内各地に至る交通の要衝になっていたのであります。 葛城には、高鴨神社、鴨都波神社、一言主神社、御歳神社、高天彦神社など加茂族ゆかりの古い名神大社があり、高鴨神社や高彦根命を始めとして、高天、高丘、高宮、高市など「高」の字のつく神名や地名が多く目立つところから、ご祭神にちなみ当地を「高森」と名づけたものと考えられます。 高森神社は、明治初年までは高部屋神社とも称されましたが、棟木に高部屋神社と書いてあることと、鳥居脇の石碑にもそのように刻まれていることなどの物証もあります。 明治初年、神仏分離令のおり、神社名を高森神社と改称されたと伝えられています。延喜式にある高部屋神社は、おそらくこの社のことを指しているものと思われます。 社殿 古い言い伝えによると、本殿は、高梨家の先祖が、戦国時代の末期に改築したが、その後に焼失したため、享保元年に現本殿が建られたものであります。 また旧幣殿、拝殿、神饌所についてはあまりにも老朽、雨漏り腐食がひどく、危険であったため、昭和53年5月15日に氏子ならびに神社役員の協力により改築竣工したものであります。 御神徳 弥生中期、水稲耕作が始った頃、加茂族の首長高彦根命は、事代主神と共に国づくりに大変活躍されました。神話においては国譲りに際し、謙譲の精神をもって接した御神徳の高い御祭神であります。農耕にあたっては、鉄器をもちいて新しい殖産を始め、日本国土づくりの神として尊崇を受けたのであります。平和の神、家内安全、五穀豊穣の神として、また縁結びにわたる御神徳は、今後高森の氏子ならび崇敬者の人びとの心に深く刻まれることを信じます。 八坂神社 (末社) 御祭神 素盞嗚命 由緒 むかし八坂神社は、北高森、前高森、小金塚の三高森の守護神として愛称「天王さん」と呼ばれ、「疱瘡神」「疫病神」として崇められ、魔除、悪病消除の霊験あらたかな神として信仰を深めておりました。病を煩うと「まじない」「祈祷」に頼るほかてだてのない当時、「疫病神」として崇めることにより、病より免れ、軽く済むと信じられたのでありましょう。稲作が始った頃、天地自然を愛し自然を神として天変地異や病気などの災厄を神の祟りと考えておりましたが、それらを防ぐには、罪を犯すことなく、心身を清らかにして神を祭り、神を敬うことが大切でありました。 この神社の向拝には大変素晴しい彫刻があります。言い伝えによりますと、白楽天の作品の中に見られる「林間暖酒焼紅葉」とある詩にちなんで作られたとのことであります。 大変優雅でなごやかな情景が現われています。 八坂神社 御神徳 五穀豊穣 商売繁昌 魔除 悪病消除 年間神事 一、元旦祭 1月1日 一、祈年祭 2月 (第二日曜日) 一、例大祭 4月 (第二日曜日) 一、大祓祭 6月 (7月第二日曜日) 一、八坂神社大祭 7月 (7月第二日曜日) 一、感謝祭 11月 (第二日曜日) 一、大祓祭 12月 (第三日曜日) 御神鐘 元禄9年に鋳造されました高森神社の名鐘は、祈願鐘として永く氏子に親しまれておりましたが、昭和16年、大東亜戦争のため供出、以来ふたたび、この社に戻らなかったため、昭和53年4月9日に平和の鐘として復元され、翌月15日に初打ちが行われました。鐘に刻まれている鐘銘も、元禄9年に鋳造されたものと同じように復元されました。 「神は何もいりません。心より参拝し、鐘をつくことにより、その響きの清らかさによって、世の闇は明るくなり、人々に幸福を与えて下さる」という意味のことばが刻まれてあります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
高森神社 縁起 神社創建は不詳であります。 味須岐高彦根命は瑞穂の国と言われる日本に稲作文化を広めた加茂族の首長でありました。大国主命の長子として生まれ、天照大御神が大国主命に国土を謙譲するようにと天稚彦を遣わしたとき、和合を持って平和に徹した神であり大和の葛城に鎮座されたのであります。御祭神は大変権威の高い神であるため、天照大御神と呼称されるように味須岐高彦根命も大御神と言われています。 平成21年2月3日、不審火にて社殿並び末社八坂神社が全焼し此処に合祀致しました。 北高森・前高森・小金塚の守護神として天王様と呼称され崇められています。特に悪病消除の霊験あらたかな神として信仰されています。 御神徳 五穀豊穣・心願成就・悪病消除 社頭掲示板 |
高森神社 御祭神味須岐高彦根命は、日本に稲作を拡めた加茂族の首長でありました。大国主命の長子として生れ、天照大神が大国主命に国土を献上するようにと天稚彦をつかわした時、和合をもって平和に徹した神で、大和の葛城に鎮座されたのであります。 御祭神は、大変権威の高い神であるとともに日本の国土造りの中心人物でありました。その高彦根命が、いつどんな経過で、この高森に鎮座されたか、明らかではありませんが、おそらく古い時代、葛城にゆかりのある人々がこの地に来て開拓、農耕殖産の道を教え、五穀豊穣を願い、郷里にちなみ、心のよりどころとしてここに高部屋の社を建て、祖神の高彦根命をお祭りしたものと思われます。 加茂族の中心地葛城は、稲作に大変好適地であったばかりでなく、国内各地に至る交通の要衝になっていたのであります。 葛城には、高鴨神社、鴨都波神社、一言主神社、御歳神社、高天彦神社など加茂族ゆかりの古い名神大社があり、高鴨神社や高彦根命を始めとして、高天、高丘、高宮、高市など「高」の字のつく神名や地名が多く目立つところから、ご祭神にちなみ当地を「高森」と名づけたものと考えられます。 高森神社は、明治初年までは高部屋神社とも称されましたが、棟木に高部屋神社と書いてあることと、鳥居脇の石碑にもそのように刻まれていることなどの物証もあります。 明治初年、神仏分離令のおり、神社名を高森神社と改称されたと伝えられています。延喜式にある高部屋神社は、おそらくこの社のことを指しているものと思われます。 ■社殿 古い言い伝えによると、本殿は、高梨家の先祖が、戦国時代の末期に改築したが、その後に焼失したため、享保元年に現本殿が建られたものであります。 また旧幣殿、拝殿、神饌所についてはあまりにも老朽、雨漏り腐食がひどく、危険であったため、昭和53年5月15日に氏子ならびに神社役員の協力により改築竣工したものであります。 公式HP |
鐘楼再建記念碑 平成23年9月21日、関東地方を直撃した台風十五号により、「市保存樹木つくばねかし」が倒木、元禄9年(1696年)より境内にありました鐘楼が全壊に至りました。 昭和16年に大東亜戦争のため供出、昭和53年4月9日に平和の鐘として復元された御神鐘は、幸いにして無事でありました。 早急に再建すべく、氏子の皆様に再建資金のご協力をお願いし、同年12月25日、竣工式ならびに御神鐘初打ちを執り行うことが出来ました。 ここに、氏子の皆様のご理解・ご協力に衷心より感謝申し上げます。 平成24年4月吉日 氏子中 社頭掲示板 |
郷社 高森神社 祭神 味須岐高彦根命 弟橘比売命 創立年月及由緒詳ならず、廷喜の制式内小杜に列せられ、当國十三座の一にして当時高部屋神社と称し、慶長年間社殿焼失し、古記神宝悉く灰燼に帰せりと、嘉永2年二品惟仁親王御染筆の額を賜はる、明治6年7月30日、七社権現と称せしを高森神社と改称し、郷杜に列す、41年7月、村内吾妻神社を当社に合併す、 建物は社殿一宇にして、境内地は467坪(官有地第一種)あり、当社果して式の所謂高部屋神社なりや否やに就き、特選神名帳に説あり、云く、 「今按ニ、本村隣村ニ高森アリ、其地ナル高森神社ニ、近頃高部屋神社卜云説アレド、コハ唯村名ノ高ト云ニヨリテ附合セシ説ニテ確証ナケレバ従ハズ。」 明治神社誌料 |