前鳥神社
さきとりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】前鳥神社 相模国 大住郡鎮座

   【現社名】前鳥神社
   【住所】神奈川県平塚市四之宮4-14-26
       北緯35度21分25秒,東経139度21分52秒
   【祭神】菟道稚郎子命 (合祀)大山咋命 (配祀)日本武尊
       『旧神祠記』「祭神未考」
       度会延経『神名帳考証』船霊、天鳥船神
       『神社覈録』天廣鳥命
       本来の祭神は、宇遅能和紀郎子命一柱であろう

   【例祭】9月28日 例祭
   【社格】旧郷社 相模国四宮
   【由緒】養老年中以前に鎭座
       仁寿2年(852)正六位に叙位という
       建久3年(1192)8月9日北条政子安産祈願で神馬奉納
       天正19年(1591)11月徳川家康社領寄進
       明治6年7月15日郷社
       明治42年四宮大火で焼失

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「四之宮大明神」と称していた
   【公式HP】 前鳥神社
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・神饌所・神輿殿・鐘楼・宝藏・手水舎

   【境内社】神戸神社・奨学神社・祖霊社・御嶽神社・稲荷社
   【境内図】 境内図

下水処理センターに南接して鎮座する。
天平7年(735)の相摸国封戸租交易帳に「大住郡埼取郷」の記載があり。前取郷に鎭座している所から社名が起こったとする。
西方1.5Kmには相模の国最大の前方後円墳(平塚市真土の大塚山古墳、墳長60m)があり、京都府の椿井大塚山古墳の出土のものと同笵の三角縁神獣鏡が一面出土している。この墓は祭神菟道稚郎子命であるとの説もあるが、でなければ勢力のあった豪族で大和政権と密接な関係が人物ということになる。


由緒

御祭神
菟道稚郎子命 (うぢのわきいらつこのみこと)・学徳の神様です。
大山咋命 (おおやまくいのみこと)・活動と福禄の神様です。
日本武尊 (やまとたけるのみこと)・安全守護の神様です。
御由緒
この地は、相模川に沿った沖積地で、水田白田あいなかばする肥沃なところです。したがって、はるかな時代から、豊かな集落が発生していたらしく、石器・土器などの遺物がたくさん発見されています。
四之宮の地名は、平安時代にはじまっていますが、それ以前は古くから「さきとり」といわれ、天平7年 (735) の相模國封戸租交易帳に「大住郡埼取郷」の記載があります。「さきとり」の地名が、いつごろからはじまったかあきらかではありませんが、奈良時代より前からの地名であることはたしかです。この「さきとり」の地に住んでいた人たちが、最も清浄なところを選んで、おまつりしたのがこの「さきとり神社」で、氏神として奉祀したものと考えられます。氏神は氏の上を中心とした氏人の尊崇をうけたものであることは申すまでもありません。
延喜年間 (901〜23) 、『延喜式』が撰せられ、全國の著名神社が収録され、相模國の十三座が神名帳に登載されました。当神社はそれに「前鳥神社」としるされています。このときから社号を「埼取」「前鳥」「前取」あるいは「左喜登利」などといろいろにもちいてきましたが、現在は延喜式神名帳にもとづいて「前鳥神社」と定めています。
養老年間 (717〜24) に相模ノ國の國府祭がはじまったといわれ、その頃から四之宮の称を生じ、四之宮大明神ともいわれました。やがて前取郷が四之宮郷と通称されるようになったのも、これはあきらかに社号をもって地名としたものです。
当神社が延喜式神名帳に載る古社であり、上代以降相模ノ國の國司の祈願神社でありました。さらに鎌倉時代には幕府の崇敬をうけ、建久3年 1192)8月、源頼朝公夫人政子の安産祈願にあたり、神馬奉献のあったことは、『吾妻鏡』の載せているところであります。
のち関東八ヶ國の領主となった徳川家康公は天正19年 (1591) 11月、武運長久祈願のため朱印地拾石を寄進し、あわせて社地2100余坪を除地として加護を加えられました。
創祀以来、当神社は神官がつかさどり、前取庄または四之宮庄として中世まで、四之宮、新土 (平塚市) 長沼 (厚木市) など広く神領としていた時代がありました。近世初期からは、古義真言宗雪霜山鏡智院を別当とし祭事のすべてを管掌させてきましたが、明治維新の大改革にあたり、鏡智院家成海法印が復飾して名を神代式部とあらため、神仕の職について以来、その子孫がつづいて神職として現在に至っています。
昭和43年9月、この年創祀1600年にあたり、元皇族賀陽恒憲氏をお迎えして、創祀1600年式年大祭が盛大に斎行されました。
御神徳
前鳥大神 (菟道稚郎子命) は、第15代應神天皇の皇太子で、幼い頃より聡明で天皇の寵愛をうけられました。当時朝廷に来ておらてました百済国の王子阿直岐から、帝王の道を学ばれ、ついで博士王仁を招かれ学問の道をひらかれたことは、歴史の伝えるところであり、論語・千字文などの漢籍が、はじめて我が國に渡来したのもこのときであります。よって昔より修学の神、学問の祖神として広く尊崇されるゆえんなのであります。またこの時代に、日本の農業、土木建築等が急速に発展したのも、学問のほかに産業技術導入をはかられたからにほかなりません。まことに國運興隆の基をきずかれたこと、菟道稚郎子命に負うこと最も大であると申せられます。菟道稚郎子命を祭神としてまつる神社は極めてまれで、全国では京都府宇治市にある宇治神社と前鳥神社の二社であります。したがって当神社は関東唯一の学問・文化の祖神をまつる古社であるといわれるものであります。現在では、この御祭神の御神徳を慕い、関東一円より広く信仰をあつめております。
大山咋命は、山の神と称したてまつり、当神社においては、これを活動と福禄の神として祭祀しております。もとは村内日枝神社 (旧称山王社) の御祭神でありましたが、明治年間、当神社に合祀されたものであります。
年間祭典
月次祭 毎月1日・15日・28日
歳旦祭・元旦祈祷祭 1月1日 早朝元旦祭を斎行。続いて各種の新春祈祷が始められる。
奨学神社祭・学業祭 1月15日
節分祭豆撒行事 2月節分の日 神事ののち、大勢の裃姿の年男により豆撒行事が行われる。
崇敬会大祭 4月第3日曜日 一年に一度の崇敬会員の大祭ならびに大会
国府祭 5月5日 平安時代、相模ノ國の國府が餘綾ノ郡柳田 (大磯町国府) の地に遷ると、国司が毎年端午に同所の神集山へ、一之宮寒川神社。二之宮川匂神社。三之宮比々多神社。四之宮前鳥神社及び五之宮として平塚八幡宮の五社の参集をもとめ、国家安泰、五穀豊穰の祈願を行ったのが始めとされている。昭和41年県無形民族資料指定
夏越の大祓 6月30日 1月から6月まで半年間に受けた罪穢を祓い除き心身ともに清浄になって夏を無事過すことを祈る。氏子崇敬者は人形を納め大祓をうける。
八坂神社例祭 7月14日 境内社八坂神社の祭。神輿渡御
例大祭 9月28日 本社の一年に一度の大祭。広大なる御神徳を讃え、日頃の御神恩に感謝の誠をささげます。当日は奉納書展、献句、盆栽展、奉納演芸があり、終日参詣者で賑います。特に神輿の還御は古式による伝統行事として広く有名です。
七五三詣 11月15日
感謝祭 11月23日 新穀を奉献、感謝の誠をささげる。
師走の大祓 12月31日 一年間の罪穢を祓い清め、清々しい心で新年を迎える祭。氏子崇敬者はこぞって人形を納め大祓をうける。
平塚市指定重要文化財
前鳥神社祭事
〇麦振舞神事
5月5日の国府祭、9月28日の御例祭の神輿渡御に際して行われる神事であり、神輿を担ぐ為の力づけの「力飯」を食するもので、神人共食の神事でもある。
新編相模国風土記稿に「淘綾郡国府本郷村神揃山へ渡御アリ当社神輿供奉ノ者四月晦日米一升ヲ椀ニ盛リ芋ノ葉ノ汁ニテ干莱箙蕃椒ノアヘモノヲ饗ス。麦振舞ト称セリ。」とある。
〇神輿宮入り神事
御例祭に当り社頭を発った神輿は氏子内を一巡した後、夕刻太鼓橋までさしかかると、楽の音の響く中、日本武尊を先頭とし、その年の新成人の警護のもとに渡御し鳥居手前にて待ちうけていた氏子総代が神輿に白絹の「奠の綱」と呼ばれる神を導く綱をつけ、社殿まで誘導、やがて還幸を迎える。
〇日本武尊の舞
新編相模国風土記稿に記されている通り、当神社には社宝として「日本武尊の面」を所蔵しているが、それに伴い別当鏡智院に相伝せられたあった舞がこの舞である。
日本武尊の草薙剣の古事と求福厄除が混然として入り交じっており単調な太鼓のリズムにより舞われる。
現在は2月の節分祭と、4月の崇敬会大祭のみに公開される。
○前鳥囃子
江戸時代前期より当地に伝わる囃子で、中期には江戸文化の影響をうけ里神楽の発祥をみ、今に伝承されている。
笛を基調とした激しいリズムの中でおかめ、もどき、天狗、そして狐が舞い表す里神楽は大変ユ−モラスなものである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




前鳥神社

御祭神
菟道稚郎子命 (うぢのわきいらつこのみこと)
修学・学問の神様。 我が国で初めて中国からの典籍を学ばれました。
大山咋命 (おおやまくいのみこと)
活動と福禄の神様。 明治期に村内の日枝神社を合祀しました。
日本武尊 (やまとたけるのみこと)
火難除けと安全守護の神様。 東征の折り、当地にて身を憩われました。
以上三柱の神様をあわせて「前鳥大神」と称し、この御祭神の御神徳を慕い広く関東一円より、信仰を集めております。
御神徳
前鳥大神(菟道稚郎子命)は、第十五代応神天皇の皇太子です。当時、百済から来朝していた阿直岐(あちき)から帝王への道を学ばれた後、博士王仁(わに)を師として学問の道をひらかれました。
論語や千字文などの漢籍をわが国で最初に学ばれた方でもあります。このことから、古くより修学の神、学問の神として広く尊崇されています。
また命は、帰化した渡来人技術者を篤く庇護し、産業技術の導入を計られ、日本の農業・土木建築等の急速な発展をなされました。さらに、その俊秀の誉れから、皇太子と定められましたが、兄大鷦鷯命(おほさざきのみこと、後の仁徳天皇)と皇位を譲り合い、ついには兄君をたてて自らはお隠れになりました。この「謙譲の美徳」は、古今に関わらず範とされるべきでしょう。
なお菟道稚郎子命を祭神として祀る神社は極めて稀であります。
御由緒
神社名の「さきとり」は平安以前の古い地名で、相模川河原に接する自然堤防の南端で、地形名から起こったと言われています。
奈良時代の天平7(735)年の『相模國封戸租交易帳」には「大住郡埼取郷」として記載されています。
この「さきとり」の地に奈良時代以前、畿内から御祭神を「氏の上」とする氏人が移り住み、遺徳を偲び、清浄な地にお祀りしたのが「さきとり」神社と考えられます。延喜年間(901〜923)に編纂された『延喜式』という法制書の中で全国の著名な神社が収録されている神名帳に、当神社は「前鳥神社」と記され、相模国の十三座のひとつとして登載されています。また、四之宮の称は、養老年間(717〜724)の相模国の国府祭が始まったとされる頃に生じ、平安時代には四之宮郷として通称されるようになりました。
鎌倉時代には幕府の崇敬を受け、建久3(1192)年8月、源頼朝公夫人政子の安産祈願にあたり神馬の奉献があり、建暦2(1212)年に幕府は当社を将軍家祈祷所と定めました。近世に入ると、関東八カ国の領主となった徳川家康公は天正19(1591)年11月、当社に武運長久祈願のために朱印地十石を寄進、あわせて社地二千百余坪を除地として加護しました。
当神社は、この地に鎮座して以来、連綿と祭祀を続けてきました。時代が近世初期になってからは、寺社領の確定により、古義真言宗雪霜山鏡智院神光寺が別当寺として祭事のすべてを掌っておりました。そして、明治維新の大改革の際に鏡智院家が復飾、名を神代にあらため、現在に至るまで神仕(かみつかえ)の職に就いています。
御神宝
弥生式土器  金環・銀環  壷型土器  日本武尊の面
天文板論語  神号扁額   社号扁額 
論語・千字文を主とした漢籍   百済時代の軒瓦

公式HP






前鳥神社

祭神 菟道稚郎子命 大山咋命 日本武尊
由緒 ご鎮座1630年のご由緒をもつ古社で、相模國の第四之宮として国司が参拝し、鎌倉幕府、江戸幕府などの崇敬も篤かった。主祭神菟道稚郎子命は応神天皇の皇太子として幼いころより帝王学を学ばれ、百済国より王仁博士を招き、論語・千字文を学び、日本で最初の学間、修学の道を開かれた事から、学問の神様として信仰されている。
例祭9月28日
交通JR平塚駅北口よりバスにて「前鳥神社前」下車徒歩3分

参拝のしおり



前鳥神社

この地は、相模川に沿った沖積地で、水田白田あいなかばする肥沃なところです。したがって、はるかな時代から、豊かな集落が発生していたらしく、石器・土器などの遺物がたくさん発見されています。
四之宮の地名は、平安時代にはじまっていますが、それ以前は古くから「さきとり」といわれ、天平7年 (735) の相模國封戸租交易帳に「大住郡埼取郷」の記載があります。「さきとり」の地名が、いつごろからはじまったかあきらかではありませんが、奈良時代より前からの地名であることはたしかです。この「さきとり」の地に住んでいた人たちが、最も清浄なところを選んで、おまつりしたのがこの「さきとり神社」で、氏神として奉祀したものと考えられます。氏神は氏の上を中心とした氏人の尊崇をうけたものであることは申すまでもありません。延喜年間 (901〜922) 、『延喜式』が撰せられ、全國の著名神社が収録され、相模國の十三座が神名帳に登載されました。当神社はそれに「前鳥神社」としるされています。このときから社号を「埼取」「前鳥」「前取」あるいは「左喜登利」などといろいろにもちいてきましたが、現在は延喜式神名帳にもとづいて「前鳥神社」と定めています。養老年間 (717〜723) に相模の國の國府祭がはじまったといわれ、その頃から四之宮の称を生じ、四之宮大明神ともいわれました。やがて前取郷が四之宮郷と通称されるようになったのも、これはあきらかに社号をもって地名としたものです。
当神社が延喜式神名帳に載る古社であり、上代以降相模國の国司の祈願神社でありました。さらに鎌倉時代には幕府の崇敬をうけ、建久3年 (1192) 8月、源頼朝公夫人政子の安産祈願にあたり、神馬奉献のあったことは、『吾妻鏡』の載せているところであります。のち関東八ヶ國の領主となった徳川家康公は天正19年 (1591) 11月、武運長久祈願のため朱印地拾石を寄進し、あわせて社地二千百余坪を除地として加護を加えられました。創祀以来、当神社は神官がつかさどり、前取庄または四之宮庄として中世まで、四之宮、新土 (平塚市) 長沼 (厚木市) など広く神領としていた時代がありました。近世初期からは、古義真言宗雪霜山鏡智院を別当とし祭事のすべてを管掌させてきましたが、明治維新の大改革にあたり、鏡智院家成海法印が復飾して名を神代式部とあらため、神仕の職について以来、その子孫がつづいて神職として現在に至っています。
昭和43年9月、この年創祀千六百年にあたり、元皇族賀陽恒憲氏をお迎えして、創祀千六百年式年大祭が盛大に斎行されました。

神奈川県神社庁



前鳥神社御由緒

相模国四之宮
前鳥神社御由緒
御由緒
前鳥神社の創祀は奈良時代以前、第十五代応神天皇の皇子菟道稚郎子がこの地へ移り住み、後にこれを祭神として祀ったことに始まると伝えられ、千六百五十年の歴史を有します。
奈良時代から十世紀半ばにかけて、この地には相模国府(現代の県庁)が置かれ、当神社は国府の鎮護として国司(県知事に相当)を始め官人により神拝がなされたと考えられます。十世紀初頭に醍醐天皇によって勅撰された『延喜式』神名帳では奉幣社の一社に挙げられ、十世紀末に大磯町国府本郷へ国衙が遷された後は国司巡拝社の第四番に列し、爾来相模国四之宮と称されております。
鎌倉時代には源頼朝公より夫人政子の安産祈願の神馬奉納に与り、将軍家御祈祷所と定められたことが『吾妻鏡』に記されます。続く室町・安土桃山時代の動乱を経て衰微しましたが、徳川氏の崇敬篤く、家康公より社領地十石の寄進と朱印状を得て再興いたしました。江戸幕府成立後は、将軍家武運長久の祈願所と定められ、「四之宮大明神」として身分の上下を問わず広く信仰されてまいりました。
現在は渡来人から最新の学問を学び、その技術を篤く庇護した御祭神の生涯に因み、学徳・就職・安全守護の前烏大神として広く尊崇を集めています。

社頭掲示板



前鳥神社

前鳥は佐岐止里と訓べし、和名鈔、(郷名部)前取、〇祭神天廣鳥命、(地名記)〇四之宮村に在す(同上)例祭 月、日、○東鑑十二云、建久3年8月9日、早旦以後、御台所御産氣、云々、相摸國神社佛寺奉神馬、云々、四宮、前取太明神、
社領
当代御朱印高十石

神社覈録



郷社 前鳥神社

祭神 字遅能和紀郎子命 創立年代詳ならず、延喜の制式内小社に列せられ、当国十三座の一にして、四の宮たり、故に一に四宮明神ともいふ、建久3年8月9日、源頼朝北方御産気に依り諸社と共に当社へも神馬を奉り、社領として朱印十石を寄進せり、(O東鑑)御神体は、束帯、木像、高さ一尺五寸と新編相摸風土記に見えたり、前鳥、古く前取とも書す、神社覈録に云く、祭神天広鳥(地名記)と、明治維新の際社領を上地し、6年7月15日、郷社に列す。
社殿一宇、境内地は2118坪(官有地台一種)あり。

明治神社誌料



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