大幡神社
おおはたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大幡神社 佐渡国 賀茂郡鎮座

   【現社名】大幡神社
   【住所】新潟県佐渡市大倉12
       北緯38度14分0秒、東経138度23分32秒
   【祭神】大股主命
       『佐渡志』大幡主命

   【例祭】4月11日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】貞観3年(861)創設
       元慶7年(883)2月2日従五位下(三代実録)
       延喜元年(901)創祀とも云
       明治39年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは50mほど低地に鎮座とも、あるいは、佐渡の中央部にある加茂湖周辺から遷座したとも伝わる

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿権現造
       幣殿・拝殿・神撰所・神器庫

   【境内社】

大幡社は吉井の青龍寺村(もと両津市旭)から移転したという伝承が国仲地方にある。
もとはいまの社地から40〜50mほど離れた村はづれの低地にあつたとする傳へをのこしてゐるが、その場所は必ずしも確定できない。「ハラフト」と云ふ場所にあつたとする記録は村に現存する。神社からの道を村に下り、さらに海岸に出たところがお旅所である。「式内社調査報告」


大幡神社

島民が選んだ、島の宝
大幡神社
醍醐天皇の命により編集され、927年に完成した延喜式神名帳に記載された式内社。
当時、地方の名社として崇拝されていたと思われる式内社が佐渡島内には9つも存在する。大幡神社は式内九社の第八にして、往時は佐渡北部24ケ村の総鎭守となっていた。
佐渡百選実行委員会

社頭掲示板



大幡神社

『佐渡神社誌』には由緒として『元禄寺社帳』に貞観3年(861)の創設とあり、一説には、延喜元年(901)の創祀なりとも云へり。式内九社の第八にして、往時は佐渡北部二十四ケ村の総鎭守たりし也。祭神に就ては異説少なからず。『宝暦寺社帳』には大股主命とあり。こは開化天皇の第三皇子比古座王、即ち後の四道將軍の内なる丹波道主命の長子なり。狭穗彦の変に方り、其家長たるの責を負ひ、豫て叔父大彦命に從ひ此地に至りし縁由もて、再び佐渡に渡り朝延に対し謹愼の意を表し、地方開発に努めたりと云ふ。又の説に、大股主命は大幡主命にて、大若子命とも称し、天御中主尊の裔彦久良爲命の子なり。垂仁の朝北狭を平げたる功に依、大幡主命と改称せられしと云ふ。明細帳の大股主命とあるは後考を要す(大股主の股は服の誤写ならん)とする。今村人の語るところでは、「昔祭神がこの村へきて賊を退治した。その場所は村はずれのワセリという場所で、その時矢を射たところがウツボガヒラ、隣村のヤガラ(矢柄)はその時の矢がらがとんだところ」と説明する。また、次のやうな傳承がある。「神社の下方に住んでいる木戸豊左エ門は平家の落人で、昔この沖を船で通った折、海岸に白旗が立っていたので、ここにあがった。大幡神社は木戸豊左工門がおまもりをすることになっており、神社の掃除。流鏑馬(やぶさめ)の射手さんの食事給與など、今に木戸豊左エ門家が面倒をみる。」と云ひ傳へてゐる。この傳承は大幡神社が海人によつてもたらされたことを主張するものであらうか。
神階については三代實録元慶7年(883)2月2日己亥條に「授佐渡國正六位上大幡神從五位下」とある。明治39年縣社に列した。

式内社調査報告



大幡神社

元禄寺社帳に貞觀3年(861)の創設とあり、一説には、延喜元年(901)の創祀なりとも云へり。式内九社の第八にして、往時は佐渡北部24ケ村の總鎭守たりし也。祭神に就ては異説少なからず。『寶暦寺社帳』には大股主命とあり。こは開化天皇の第三皇子比古座王、即ち後の四道将軍の内なる丹波道主命の長子なり。狹穗彦の變に方り、其家長たるの責を負ひ、豫て叔父大彦命に従ひ此地に至りし縁由もて、再ぴ佐渡に渡り朝廷に對し謹愼の意を表し、地方開發に努めたりと云ふ。又の説に、大股主命は大幡主命にて、大若子命とも稱し、天御中主尊の裔彦久良爲命の子なり。垂仁の朝北狄を平げたる功に依、大幡主命と改稱せられしと云ふ。明細帳の大股主命とあるは後考を要す(大股主の股は服の誤寫ならん)。

佐渡神社誌



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