飯持神社は小倉川の大きな堰を、すぐ近くに見下ろす台地の先に位置している。 延宝年間(1673年-1681年)、橘三喜が社参、「萬民のみたまのふゆをうけ持のかみの社はかすかなれども」という額を奉納したという。 |
飯持神社 飯持神社 鎮座地 畑野町大字飯持236番地 御祭社 保食神 境内社 八幡神社 祭神 応神天皇 武内宿禰 白山神社 気長足姫尊 菊理姫命 小田原神社 狭依姫命 例祭日 太陽暦による3月と9月の社日 新嘗祭 12月10日 由緒 延喜式内旧社であり当国(佐渡)九社の第六位に列し、明治6年6月に郷社となりました。 祭神保食神は五穀を始め牛馬養蚕鳥魚等の守護神であり璽徳顕著にして近郷より多数の参拝者がありました。 延宝中正六位上橘三喜社参の折の奉納額「萬民のみたまのふゆをうけ持のかみの社はかすかなれども」を当社の宝物としていましたが、今は所在がわからなくなつています。 佐渡市・畑野観光協会 社頭掲示板 |
飯持神社 当社は延喜式所載の第六にして昔は祭神を若宇賀賣神と称したり、今社号を「イヒモチ」と呼べども古訓にあらず。釈記の説に依り「ウケモチ」と唱ふべきなりと云ふ。 朝野群載に承暦4年(1079)6月10日、奏亀と御体御(中略)坐佐渡国飯持神云々社司等依過穢神事崇給遺使科中祓可令祓清奉仕事(下略)とあり。当時はなお官幣の社たりしことを知らる。 後室町時代の兵乱を経て官幣の事も止み社運大いに衰へしが如く、江戸時代なる延宝中橘三喜が参詣せし時の日記に左の如く見ゆ。 名高き飯持の神社に参りけるに社も極て小さきほこら朽ち残りければ 萬民の みたまの水をうけ持の 神の社は かすかなれども その後祠官氏子等が周旋宜しきを得たりけん、社殿も数回改築(現在のものは明治28年なりと云ふ)せられ崇敬者も大に加はり、春秋両度の祭日には種子交流交換その他の神事行なわれ、郡内各地よりの参拝者甚だ多しと云ふ。明治6年郷社に列せらる。 大正12年1月29日本県より幣饌料供進せらる。 当社昔は村内なる真言宗真楽寺別当たりしが、元文中(1736〜40)棟札には左の如く記せり、而もその止みしは何時なりしか詳ならず。 畑野村志 |
佐渡百選 島民が選んだ、島の宝 53飯持神社 醍醐天皇の命により編集され、927年に完成した延喜式神名帳に記載された式内社。 当時、地方の名社として崇拝されていたと思われる式内社が佐渡島内に9つも存任する。畑野地区には飯持(いいもち)神社をはじめ四社が集中している。 佐渡百選実行委員会 社頭掲示板 |
飯持神社 秘訓に美氣毛智とあり、宝暦寺計帳に御神號若宇賀能売神気化神也御膳持須留若宇賀能売神と見えたりとあれど此国にては伊比毛智と云ひて牛馬稲穀の守護神とせり、延喜式内の旧社にして当國九社の第六に位し明治6年6月郷社に列せらる、延宝中正六位上橘三喜社参の折小き祠の在りけるを拝して奉納の和歌『萬民のみたまの水をうけ持の神の社はかすかなれこも』は当社の什宝なりければ享和元酉年6月社人本間千之助本間兵蔵より奉行所へ書上げの物に記されたれ共今其所在を失ふ。朝野群載白河天皇承暦4年6月御トへ合へる事見えたり。 佐渡神社誌 |