『佐渡国誌』(大正11年刊 岩木拡)に、「此社もと後山の西隅なる宮所に俗稱する所に在り、時の社人長次郎なる者自己名義を以て、延宝7年(1679)馬場村與五右衛門に譲り渡せし為神跡不明となる、現在は寛延3年(1750)後山重立古屋将監なる者私費を以て経営し、後勸行院に売渡したるもの」とある。 宮所以前は山崎五郎右衛門屋敷に鎮座したとも。慶安年間(1648年-1651年)に洪水により社殿が流出し、字南林の地に遷座、新宮と称したとも言われている。 「式内社調査報告」は式内社であることを否定している。 |
御食神社 当社は式内九社の第五なり、元慶元年(877)五畿七道諸国天神祇3132座に班幣せし時には、佐渡国中他の8社と共に之に興りしなり。斯かる由緒正しき社頭も憲国時代の擾乱のため自然荒涼たるに隣村宮浦に一宮神社の社運興隆せるより、諸民の敬意は彼の社に帰して当社は殆ど叢祠の観をなせしが如し。略風土記には後山村とあれども古實略記及び寺社帳に往古は勧請の地知れず、元山崎五郎助と云ふ百姓屋敷に神跡あれども不詳と云ふ迄に至れり。又佐渡志にも後山村に此の御食の神にやと古記に拠りて付記せり。(吉田東伍[文学博士]の地名辞書には大膳社を御食なりと断定せり) しかれど神跡のすでに滅したる時にも猶ほ後山に在りと口碑に伝ふ、斯かる口碑は最も尊重すべきものにて有志の士が随時研究の結果左の如く知悉せらるるに至れり。 当社は昔は今の山崎五郎右衛門屋敷に鎮座したるに、慶安前後の頃(1648〜51年)に洪水のために社殿を流され、其の後は村内字南林と云ふ地に移し祀りしより其の地を新宮と称したりしが、社人内田長次郎は社領を売払ひ遂に延宝7年(1679)に至り社地なる南林をも隣村人に売却したりしかば。元禄検地(1693)の際には社基は湮滅の様に在り社地は他村人の私有として検地せられたるなり、然るに享保中(1716〜35年)の奉行小浜久隆より御食の神跡を尋ねられて初めて村人は其の尊厳なる古祠なることを覚りたるが如く、村内の旧家古屋六郎兵衛重屋と称する者神社を再興すべく用意はしたるも果たさず、遺言して没せしが其の孫将監に至り寛宝3年(1750)右の南林の地を所建設の石祠と共に馬場村市郎右衛門より買い取り、宝暦5年村民と協議し更に今の地に移し社殿を新築して当社を再興し、自ら社人となり後 今の神職の先代なる修験勧行院に譲りて別当たらしめ一村皆氏子となり社運高く漸く復して今日に至れり。 明治元年勧行院復帰して神職となり同6年8月村社に列せられ、同17年神輿を新造し、同28年社殿を改築し大正12年1月29日神饌幣帛供進の社に指定せらる。 畑野村志 |
佐渡百選 島民が選んだ、島の宝 53御食神社 醍醐天皇の命により編集され、927年に完成した延喜式神名帳に記載された式内社。 当時、地方の名社として崇拝されていたと思われる式内社が佐渡島内に9つも存在する。 畑野地区には御食神社をはじめ四社が集中している。 佐渡百選実行委員会 社頭掲示板 |
御食神社 宝暦寺社帳には当社当国九社神の内也、御神号大御気持命神皇産霊尊の子往古勧請の地不知今山崎五郎助と甲す百姓の捕地に神迹有之とも云へど不詳と見ゆる事實に近し、明細帳には創立年月不詳なるも延喜式神名帳に紀載の社にて大膳寮所祭の神と申伝ふ、天正年間兵火に罹り旧紀焼亡せり、当村産土神にて明治6年6月村社に列すとあり。 佐渡神社誌 |