物部神社
もののべじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】物部神社 佐渡国 雑太郡鎮座

   【現社名】物部神社
   【住所】新潟県佐渡市小倉乙618
       北緯37度57分51秒、東経138度25分55秒
   【祭神】宇麻志麻治命
   【例祭】4月14日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天平年間物部氏の裔穂積朝臣老小祠を建て祖先を祀る
       延暦10年(791)9月従五位下(続日本紀)
       元文5年4月(1740)道営

   【関係氏族】穂積朝臣
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「住吉大明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・宝藏庫

   【境内社】藤源神社

今も住吉さんなる別称で呼ばれている。これは当地が水運の国府川の上流に在り船材の主産地であったことに由来し航海安全の守護神であったことをも象徴している。
赤い神橋を渡ると赤い拝殿がある。
『続日本紀』延暦10年(791年)9月に従五位下に叙された。これは、記録に残るものとしては、県下で最も古い神階昇叙となる。


物部神社

当社は延喜式九社の第一に挙げられ、かつ延暦10年(791)県下で最初に神階(従五位下)を授けられた旧県社である。
 創建は穂積朝臣の老が養老2年(722)佐渡配流、謫居20年の間物部氏の先祖「宇麻志麻治命」を祠り小祠を建立。
 清和上皇御遷幸あらされし際、当社に御幸遊ばされる。また天和年間(1681〜)小倉大納言実起郷此里に居を占めて、崇敬斜めならずと言う。
 今も住吉さんなる別称で呼ばれている。これは当地が往古水運の国府川の上流に在り船材の主産地であったことに由来し航海安全の守護神であったことをも象徴している。
 現に日蓮上人の住吉大明神なる木札もある。
 昭和32年、小倉地内の四神社統合の議が成立、八幡神社及び二つの白山神社を当社に合祀し今日に至る。

社頭掲示板



物部神社

境内社藤源神社
佐渡代官藤沼源左工門を祭神とし、嘉永5年6月16日小倉村全村の崇敬の象徴として旧八幡社の境内に創立、爾来6月16日(現在7月16日)の祭日には近隣の村々からの参拝の老若男女が村人に加わり、神殿前は市をなすほどの賑わいをみせていた。
大正11年11月、老朽化の為旧真野宮本殿を譲りうけ、移転改築、さらに昭和32年の四社統合によりここに遷宮現在に至る。藤沼源左衛門時房は佐渡代官として、宝暦3年(1753)8月来島、就任当時の全島不作に続き、5年6年には当地と猿八村は凶作の様相を呈するほどで餓死者続出の窮状にあえぐにいたる。諸説あれども、一説には「小倉村三百軒中、餓死三百余人死絶百二軒」とある。この惨状に心痛めた藤沼氏は佐渡奉行石谷備後守清昌に願い出て幕府に請い租税減免の措置をとり貧民の救済に専念する。また飢渇人の田地植付人足を全島の村々より集めて耕作地の維持に努め、宝暦9年その職を辞するまで救援は続行された。その恩情を偲ぶ村人の慕情が当社の建立となつた所以である。なお、餓死者供養のために建てた二百万遍塔が近くの小倉川畔に在り毎年供養が続けられている。
この本殿が旧真野宮の本殿であつた大正5年皇太子であらせられた昭和天皇が佐渡(行啓〉の砌参拝された由緒ある建造物である。同年皇族朝香宮殿下も参拝される。小倉の地に移築後の昭和2年には新潟県知事藤沼在平氏も佐渡巡視の折り日程を繰延べて当旭へ訪れ参拝祭■を献じている。
佐渡市・畑野観光協会

社頭掲示板



物部神社

この時の権力抗争に巻き込まれたひとりの貴族が722年佐渡に流されてきた。穂積朝臣老 (ホツミノアソンオユ) といい佐渡への流人第1号である。
皇室批判の罪であり、本来は死罪であるが、彼の有能さを惜しんだ首皇子 (オビトオウジ:後の聖武天皇) の助命嘆願により佐渡に遠流と決定した。
穂積氏は物部氏から出た主流の名族であったが、物部氏が蘇我氏と争って失脚して以来中央官僚として命脈を保っていた。
この判決は藤原不比等の死後、政府の中枢に踊り出た長屋王 (ナガヤノオウ) によるものだが、彼もまた巻き返しを図る藤原氏によって自殺に追い込まれる。
律令制によって確立したかに見えた天皇家の権威は揺らぎ始めていた。
穂積は後に許されて都に戻るが、畑野町の山間の小倉の物部神社は彼の在島中の創建とされている。

http://member.nifty.ne.jp/salonmon/inpaku/2/history/02.html



万葉歌人 穂積朝臣老邸跡

天地を嘆き乞ひ祈み幸くあらば また還り見む志賀の唐崎

社頭石碑



物部神社

当社は延暦10年9月從五位下に叙せられたる延喜式内の旧社にして明治6年懸社に列せらる。
創建は聖武天皇天平年間物部氏の裔穂積老■居の際小祠を建てて祖先を祀りしに始まり小倉は和名鈔の佐為郷にして今猶此あたりを中際と云へり同族佐為氏に因めるなるぺし、清和天皇の貞観3年社殿を建築し元文5年再建せり、順徳上皇御遷幸あらせらるるや当社に御幸遊ばさる。
天和年間小倉大納言實起卿此里に居を占めて崇敬斜ならざりしと云う。同卿の古適迹今尚ほ存せり、文政4年前中納言宗時卿の末弟穂積隆雄書諏方物部氏光貞より扁額奉納あり。

佐渡神社誌



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