度津神社
わたつじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】度津神社 佐渡国 羽茂郡鎮座

   【現社名】度津神社
   【住所】新潟県佐渡市羽茂飯岡583
       北緯37度51分39秒、東経138度19分48秒
   【祭神】五十猛命 (配祀)大屋都姫命 抓津姫命
       『神名帳考証』海童神

   【例祭】4月23日 例祭
   【社格】旧国幣小社 佐渡国一宮
   【由緒】承暦4年(1080)6月10日奏亀卜
       文明2年(1470)6月洪水のため流出
       文禄2年(1593)6月社壇流出
       宝永6年(1709)造営
       明治4年5月14日国幣小社

   【関係氏族】
   【鎮座地】文禄2年(1593)6月、洪水のため流出し、同じ村の八幡宮に合祀
        その後、元の地に再建
        【一説】現在地の東。別当屋敷字垣の内、字九日田附近
        【一説】羽茂川上流、下川茂字猿八の九社神と呼ばれる小山の頂

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「一宮八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・神饌舎・神門・社務所

   【境内社】八幡宮

神社の背後の妹背山(女山・男山)は神体山とされている。
文禄2年(1593)6月、洪水のため流出し、同じ村の八幡宮に合祀された。その後、元の地に再建された。そのため「一宮八幡宮」と称されている。


由緒

佐渡一ノ宮度津神社参拝の栞
度津神社略記
当社は佐渡国、延喜式内九社の第一にして、古来一ノ宮と称せられる。
文明2年(1470年)6月の羽茂川大洪水に社地流失し、由緒、縁起、古文書はもとより別当坊に至まで悉く烏有に帰したるため、創立年月其の他詳かではない。
その後、今の地を卜占し新築御遷座申し上げたるものにして、明治4年、国幣小社に列格仰出されました。現在の御本殿は宝永6年(1709年)に、幣殿、拝殿は昭和12年、御造営申し上げたるものですが、幣殿拝殿は全部台湾アリ山産の桧で造られ、其の形態、技法、共に日本建築の粋をあつめた御社殿であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



度津神社

度津神社御由緒
「延喜式」神名帳(927年)に記載されている神社を式内社と言い当時佐渡の国には九社あり、その第一の宮として古来より一ノ宮と称し格式の高い神社でありましたが文明2年(1407年)羽茂川の大洪水により社地・古文書等ことごとく流出した為その由緒、縁起など詳らかでありません。その後現在の地に御遷座申し上げたもので明治4年国幣小社に列せられました。現在の御本殿は宝永6年(1709年)に、幣殿・拝殿は昭和12年の御造営によるもので、全部台湾産の檜が用いられております。
御祭神 五十猛命
素盞鳴尊の御子にして父神に似て勇猛なことから名付けられました。初め天降ります時、樹木の種子を持ち降り父神と共に朝鮮に渡りのち日本に帰り全土にわたり植林を奨められたので皆青山うつ蒼として繁茂し為に「植林の神」として崇められました。そして宮殿・家屋・船・車から日用器具の材料に至るまでこの神の御功績に依るところから「有功の神」とも申します。又、人々に造船・航海の術を授けられ各地に港を開かれた事から御社号を度津と称しております。尚植林と共に道を拓き車の普及に当られた御神徳により今は海上、陸上の交通安全の守護神として全島民から信仰されております。

社頭石碑



度津神社

佐渡一ノ宮 度津神社由緒
鎮座地 佐渡市羽茂飯岡550番地4 
旧社格 国幣小社
御祭神 五十猛命(いたけるのみこと)
配祀  大屋津姫命(おおやつひめのみこと)爪津姫命(つまつひめのみこと)
由緒 延喜式(927年)神名帳の佐渡国の部に度津神社他八社の名が載っており、古くから格式のある神社であったと思われる。その九社のうちの第一の宮として一ノ宮と呼ばれるようになった。初めの鎮座地は現在地よりやゝ川下にあったが(別当屋数の地名の残っている処か)文明2年(1470年)6月、羽茂川の大洪水により社殿並に別当坊、古文書等悉く流失したため、創立年代等詳らかでない。その後飯岡村にある八幡宮に合せ祀ったが、やがて現在の地に新しく社殿が建立されると、八幡宮は相殿として祀られるようになり世俗一般に一ノ宮八幡宮と呼ばれ、八幡宮の行事である流鏑馬も度津神社の例祭に行われるようになった。同時に新たに新倉山弘仁寺の管理する所となり従来の別当坊を廃して神宮寺を開基して、その別当により、以後維新に至るまで神仏混淆の時代が続く。明治に至り神仏分離となり明治4年5月14日、国幣小社に列せられた。その折、八幡宮を合祀しておく事が出来ず同6年8月本社の傍に社殿を新築して遷座し摂社と定められたが、同10年3月摂社の称を廃せられ末社と称し現在に至る。
現在の御本殿は宝永6年6月(1709年)に再興されたもので、他の本殿覆屋、幣殿、拝殿末社等は、昭和6年宮司として任命された金原源太夫の大造営事業の推進によるものである。彼はその激職のため完成半はにして、同10年惜しくも病に斃れたが、同12年に台湾産の総桧材を以て御造営は完結された。
現存する最古の棟札としては、正和2年6月13日(1313年)と、永正10年(1523年〉の二枚がある。(各れも町文化財指定である)
御祭神五十猛命は素盞鳴尊の御子で、目本書紀によれば初め天降ります時、父神と共に樹木の種子を持って韓国に渡ったが、韓国に植え尽さず、日本に持ち帰り筑紫より始めて全国到る処に植林を普及された。その御神功により有功の神とも称され、又妹神の大屋津姫命、爪津姫命と共に植林を広め、その木材による家屋、舟、車等の建築、工業の技術をも盛んにした御功徳によって亦の名を大屋彦命とも申し上げてゐる。
現在はその御神徳により陸上、海上の交通安全の守護神として全島より崇敬されている。
境内神社 末社 八幡宮 祭神誉田別尊:(合祀、豊受大神、宇迦之御魂神、家都御子神)
境外神社 末社 事比羅神社 祭神 大物主神

由緒書



度津神社

五十猛命を祭神に交通の守護神として島民から信仰されています。927年の延喜式神名帳に記載されている佐渡の式内社9社の1つで一ノ宮と称する格式高い神社です。1470年の洪水により社地、古文書等が流失したため、現在の位置に移ったとされていますが、その由緒や縁起などは明らかではありません。初詣スポットとしても有名で、島内各所から多くの人が参拝に訪れます。

佐渡観光ナビ



度津神社

國志に羽茂郡飯丘村に在り延喜式に載る所の九社の第一にして五十猛命を祭り大屋津姫、抓津姫の二神を配す(一宮記、縁起書)又海童神を祭るとも云へり古への祠は正和中に改め修せられて後文禄2年癸丑6月の水難に社壇流れければ同じ村の八幡の祠に合せ祭れり其後旧の地に祠を造りたれど猶八幡を相殿に置くと云へり古へより祠を修し鳥居を造る毎に河茂村官林の杉木を賜る例也と有り国人之を一ノ宮と称し永萬記にも一ノ宮と見え朝野群載巻六承暦4年6月10日の御体下奏に坐佐渡國大目神、度津神、引田部神、飯持神と載せられたり明治4年5月14日國幣小社に列せられ宮司禰宜主典を置きて祭祀を掌らしめられたり方今の社説も五十猛命を祭るとせり(文禄2年は癸未なり丑は誤なるべし)。
今按に社殿は古代は水湊郷の渡口に在りし故に渡津とも称し羽茂川の流域を中心として林業の発達を神謀り給ひて樹木の繁茂せるより羽茂の名も起りしならむ加茂は続紀に賀母とも書きたればカモと訓む可き事言ふ更なれど羽茂は羽母と書きし例も見当らぬに続紀刻本にも大同類聚方にもハモチと傍訓し松隣夜語に佐渡人羽持某見え國華萬葉記に佐渡国葉持浦ともあればハモチと訓むより外なく羽茂とは繁茂の義にて樹木の繁茂を云へること前に既に云へり之をウモと訓みて欣明紀の禹武即ち羽茂なりとの説は非なる事も既に弁じおけるが如し
偖て祭神の事は大日本国一宮記に渡津神社 大己貴命五十猛神一各オオや彦神 佐渡国羽茂郡、神名帳頭注に佐渡國羽茂郡度津社五十猛命と見え神社啓蒙和漢三才図曾及此国の略風土記等皆此説に從へる者の如し是れ定めて古伝なるべし。
此神の事は神代紀に干時素盞鳴尊之子号五十猛命妹大屋津姫命、次抓津姫命凡此三神亦能分布木種即奉渡於紀伊國とあるは縁ある事なりと覚ゆ紀伊国は木ノ国にて林業の発達したる地なるに此神の鎮ますこと故ありと謂ふべし。
此奉渡ると云ふ事に就きて日本紀通釈に鈴木重胤の説を引きて曰く奉渡はワタシ奉リタマヒキと訓む可し即ち御父大神の伴ひ渡し給へる御事を此方より崇まへ申す言なればなり偖て此は第一書に是時素盞鳴尊帥其子五十猛神云々乗之東波とある其御時の事を此に各別に記し載せられたるなり式に佐渡國羽茂郡度津神社は此五十猛命にて御座坐す度津と申すは即ち此奉渡於紀伊国とある事に因れるにて即ち和多志大神又和多須神杯の例是なり偖て此に五十猛命を度津神と申すも韓国より紀國に渡し奉れる由なる可らむこと右等の例を以て曉る可きものぞかしと云へりと云へり。
右に見えたる和多志大神は大山祇神を申せる事伊豫国風土記に乎知郡御島坐神御名大山積神一名和多志大神也是神者所顕難彼高津宮御宇天皇御世此神自百済国度坐而津國御島坐とあるにて知られたり。
次に和多須神は神名式に隠岐國知夫郡由良比女神社 名神大、元ノ名和多須神 とある是也。
此の神の事は一宮記、頭註等に須勢理姫命なりと云へど信け難し事物原始に讃岐國と佐波國とを双生すとは以多底鳴女男二柱神同時に両島に渡り開き給ふ由を伝へしなるべしそは式に佐渡国羽茂那度津神社祭神五十猛尊と云ひ又隠岐國知夫郡由良比女神社 名神大、元ノ名和多須神 其妻神なり
と云へばなりとある從ふ可きに似たり以多底命は即ち五十猛の一名なり
神中抄第十九に紀貫之の歌とて
往く今日も還らむ時も玉鉾の
 ちぶりの神を祈れとそ思ふ
顕昭公衍ふちぶりの神とは道触神と云ふにや海略にも詠めり
渡海のちぶりの神に手向する
 幣の追風やまず吹かなむ
この二首は共に貫之詠之
隠岐國にこそ知夫利崎と云所にワタスノ宮と云ふ神はおはすなれ舟出すとては其神に奉幣して渡を祈とぞ申すそれを本躰にて海をも陸をも道を祈る神をばナブリノ神と名けけるにやとあり。
此の渡海の歌は土佐日記新千載集にも見えたり。
賀茂真淵云く道を守る神には道反神道守神あり此は道触神なるべし行道の邊の神と云ふ心也と云へり。
上田百樹の説に此の元名云々の六字は次の海神社二座とある下に在る可きを写し誤れるならんと云へど大同類聚方十五に和多須藥隠岐國知夫郡由羅比売神社仁伝流薬之方又九十八に路反藥隠岐國知夫郡和太須神写臣安曇連之方とも見えて由良比女と和多須、路反と云ふも道触神に縁由ある名なる可れば今は採らず。
偖て五十猛尊は紀伊國名草郡の式に伊太祁曾神社大屋津比売神社都麻郡比売神社と並べ載せられて日本紀に称五十猛神為有功之神即紀伊国所坐大神是也と見ゆるを旧事地神本紀に五十猛神大屋姫神抓津姫神、巳上三柱竝坐紀伊国則紀伊国造斎祠神也と見えて紀伊国造は同本紀に神産霊命五世孫天道根命を定賜ふとあるに佐渡国しかも羽茂郡と雑太郡と両所に迄高家卿ありて姓氏録に畠家首は神魂命五世孫天道根命之後也と見えたるを今に瀧平邊に武井を名乗れる氏族多しと云ひ又旧事天神本紀饒速日命天時供奉三十二神の内に其天道根命は加へられて物部氏と親しきゆかりを有せるに又國造本紀に熊野(在田、日高牟婁三郡)国造は饒速日命五世孫大阿斗足尼を定賜ふと見えたる此等重ね重ねの縁故もて高家氏物部氏も紀州より此國に渡来して開拓殖林の神功を補ひ助けて度津神社もますます繁り榮ゆるに至りしならむ。
是既に度津社は物部氏の社にして紀州より移し祀られたりと云ひたるゆゑなり。
又近年國幣中社彌彦神社も五十猛命にして彌彦の名も其一名大屋彦命より起りたりと云ふ説いでたるが此に因れば大同方に久萬能薬を越後國蒲原郡一宮伊夜日子神社ノ伝方と云ふ事も思ひ半に遇ぐる事あらん此久萬能を強ひて出雲とせんこと謂れ先きに似たり曲来出雲と紀伊とは同系の神迹も多く同名の土地も寡からざれば也。
尚ほ高家首の事は式外旧社大庭神社の條に云ふ可し。
附言 古来彌彦神社の築造には佐渡羽茂の木材を使用するの例なりしも何となく五十猛神にゆかりあるやうに思はるるになん。
神代紀に初五十猛神天降りし時多に樹種を將て下りしも韓國に殖尽さずして持還りて遂に筑紫より始め凡て大八州國の内播殖して青山と成さざるは莫し此故に五十猛神を称へて有功之神と為す即ち紀伊国に坐せる大神是也と見えて神名式に紀伊國名草郡伊太祁曾神社とあるもの是也又式に筑前國御笠郡筑紫神社紀伊国名草郡伊達神社伊豆国賀茂郡伊太氏和気命神社播摩国飾磨郡射立兵主神社出雲國出雲郡韓国伊太氏神社陸奥国色麻郡伊達神社あり皆五十猛神を祀る実に筑紫より始めて日本全国に殖林の業を開き給ひて越後佐渡にも神迹を留め給ひしか。
帝国紀年私按に伊檀君曾は朝鮮の檀君なり此の土に称して新羅明神と云ひ又韓神と云ひ一名韓神曾保利と坐韓国伊太氏神とも云ふ朝鮮をも経営せし故也。

佐渡神社誌



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