日本武尊が東征の時、尾張氏の祖建稻種命は、この地の水軍を奉いて参加した。 日本武尊の東征の際に、「幡頭」(はたがしら)を努めた建稲種命を祭神として、羽豆(幡頭、はず)の社名としたという。 知多半島の先端に鎮座、周辺はウバメガシの林がある。 宮司は間瀬家が世襲し、創建以來連綿一千余年の旧家である。 |
羽豆神社 羽豆神社社伝 祭神 建稲種命「尾張氏の祖神」 神位 従一位羽豆名神「尾張国神名帳」 由緒 創立白鳳年中 一.熱田大宮司摂津守親昌、その猶子昌能羽豆崎に城を築く神社修復(1331-1355) 一.宗長親王御奉幣(1370) 一.尾張徳川家累代ご参詣 東照神君直義公頼宣公光友公義誠公吉通公 一.明治5年郷社に列する 一.延喜式内名神 宝物 県指定文化財 心阿彌陀経一巻 妙法蓮華教八巻 応永15年(1408)一色道範奉施 例祭 旧8月14・15日 大名行列山車五台神輿行列 宮司 間瀬家35代 正道 社頭掲示板 |
羽豆神社の指定文化財 @羽豆神社の社叢 ■国指定天然記念物 昭和9年1月22日指定■ 知多半島最南端にある羽豆岬一帯に広がる森林が「羽豆神社の社叢」として国の天然記念物に指定されています。かつてはウバメガシや松の大木が多く原生林のようでありましたが、伊勢湾台風で大きな被害を受け、現在ではウバメガジを中心にイブキ・トベラ・モチノキなどが共存する暖地性常緑林となつています。 A紺紙金字妙法蓮花経及び心河弥陀経 ■県指定文化財 昭和51年8月2日指定■ 応永15年(1408)、三河守護一色満範が播頭崎大明神(羽豆神社)に寄進した妙法蓮花経8巻、心阿弥陀経1巻で、施入状が付いています。現存する室町時代写経の代表的なもので、移動もなく云世し当時の上流武士の信仰を知ることのできる貴重な資料です。 社頭掲示板 |
羽豆神社 羽豆は假字也○祭神詳ならず○但馬庄師崎村に在す、俗幡頭崎八幡宮と称す、(府志) 府志に、伝言、有尾張氏師介者住于此地、故奉祖神建稻種命立此祠、と云るは一説也、」集説に、幡崎本州南極海岸之地、而式奉幣終此社、と云るは杜撰の妄説なるべし、 諸國ともに然る例なき事也、 類社 参河國幡豆郡羽豆神社 神位 国内神名帳云、從一位羽豆明神、(一本作波豆) 神社覈録 |
郷社 羽豆神社 祭神 健稻種命 俗に八幡又は幡頭崎八幡と称す、創立年代詳ならずといへども、明細帳に、「白鳳年中鎮座、」と見え、尾張名所図会に、「傅へいふ、尾張氏師介といふもの此地に住り、故に祖神建稻種命を祭りて此祠を建しと、」と記せり、延喜式内社にして、奉唱國内神名帳に「從一位波豆明神、」と見え、参考「從一位羽豆神社、名神、一本作正二位波豆、式無名神之号、幡頭崎明神是也、」と見え、社領は尾張志に「往古百二十貫文を領しけるが、秀吉公の時没収せられ、今はわつかに一段入畝計の御除地のみ残れり、」と見えたり、明治5年郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、寵殿等を具備し、境内地2213坪(官有地第一種)あり、明神山と称す、幡頭崎の崎頭にあり、奇岩竈背の如く滄海の上に浮ぶ、数百の石段を登れば四望の江山眺望極めて壮麗廣大なり、宝物中紺紙金泥法華経一部阿彌陀経一巻あり、応永15年一色修理大夫道範の寄する所にして、又田原憲光の奉納の太刀一腰源義経の所持と傅へらるゝ薄墨と称する横笛一管を藏す、文和4年康応元年、永享6年、明応9年、天文8年慶長6年等社殿改造又は修理のことあり、因みに当社例祭に往古は奉幣使下向して頗る盛ならしやに伝へらるるが、今尚ほ盛んにしてこれを拝観せんとして遠近より群衆の男女幾千、社頭の喧噪讐ふるに物なしと、」 神のます羽豆のみさきの磯邊には波のしらゆふかけぬ日そなき 成昌 明治神社志料 |