社名は奉斎した豪族阿左比古によるという。 阿久比駅西に鎮座する。 顕宗天皇2年正月元日に阿左比古というこの地の豪族によって奉斎。 菅原道真公の第一子高規、其の子雅規(英比丸)がこの地に土着した。 天徳3年(959)10月、英比丸を阿久比神社の御相殿に合祀した。 『鎮座記』に十三代成務天皇元年元日に、阿左比古の前に俄かに白髪・白髭の仙人のような老人が出現し、当地の五穀成就の爲阿久比の神を祭るようにと云い残して立ち去つた。阿左比古は、この意を体して勧請したと云う。 |
阿久比神社 阿久比神社は、延長5年(927)「延喜式巻九」神明町に知多三座の一つとして記され、貞治3年(1364)「尾張国神名帳」には「従二位上英比天神」と記されている。 社伝によれば、第23代顕宗天皇2年に、「開囓神」を祭り、創建されたと言われ、大化4年(648)に「猿田彦大神・天津彦命・瓊瓊杵尊」を合祀した。その後、天平神護元年(765)「八幡大神・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命」を合祀した。 延喜20年(920)英比丸(麿)が社殿を造営し、60間四方の社地を寄進した。没後、天徳3年(959)「英比丸命」として合祀された。長暦4年(1040)に拝殿が建立された。拝殿は幾度かの改築を繰り返し、平成9年度に現在の拝殿が完成された。 阿久比神社は、俗称、尾張知多の「一宮」と呼ばれているが、これは式内社として知多三座のはじめにあげられているからである。明治9年(1876)に「郷社」、明治40年(1907)10月に「神餞幣帛料供進指定神社」となった。 阿久比町教育委員会 社頭掲示板 |
阿久比神社 阿久比は假字也、和名鈔、(郷名部)英比、○祭神詳ならず、男女二躯小橡を安す、(集説)○英比庄稗宮村に在す、今稗宮八幡と称す、(集説、府志) 神位 國内神名帳云、從二位阿久比天神、 神社覈録 |
郷社 阿久比神社 祭神 開噛神猿田彦大神 田心姫神 湍津姫命 天津彦瓊々杵命 市杵島姫命 英比丸命 応神天皇 俗に八幡と称し、又一の宮ともいへり、一の宮と称するに付きて尾張志に云く、「里人一の宮と称する事は延喜式内当郡三社のうち英比神社をはじめに紀したる故なるべし」と、由緒詳ならすといへども、社記に云く、 天皇24代顕宗天皇2年寅正月元日鎮座云、祭神開噛、大化4申年4月仲申の日猿田彦命、天津彦々火瓊杵尊を并祭し、天平神護元巳年8月15日、八幡大神、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命を合祀す、云々延喜20年英比丸、社殿を建立して社前方六十間の地を寄附す、天徳3年10月晦日英比丸命を合祀す、康保2年より毎年正月元日10月晦日を以て祭るを例とす、郷人白袴を着て神酒を捧げ、柏手舞踏す、長暦4年相殿を築造云々、」 と、当杜は延喜式内社にして、神名帳に「阿久比神社、」と見え、奉唱國内神名帳に「從二位英比天神、」と見え、参考本に「従二位阿久比神社、天神、一本作正三位英比」と記せり、明治5年郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、神饌所等を具備し、境内地1479坪(官有地第一種)あり、因みに英比殿と称する男女の象を、民家各一日づつ順番に宿し奉るの俗あり、其体佛像に似たるを以て廻り地藏とも称すと、而してこの英比殿は菅原道真の事にして、この地に流せられしが、後ち勅許ありて郡主となりて地を開拓す、卒去の後郷民敬慕し其像を作りて交これを祭るなりと、この事尾張名所図会等に見えたり。 明治神社誌料 |