千種駅北。道路に面して鎮座。 垂仁天皇の時に物部氏によつて奉齋されたという。 本殿の下に霊石とされる大石があり、通称、要石と称されている。 神武天皇がこの地を平定の折り、大石をこの地の鎮としたとされており、古代の磐座とも考えられる。 元禄年間に藩主徳川綱誠が荒廃していた社殿を新たに建立した。 明治初年に式社に治定、ついで村社に列せられたが、後に無格社となつた。 |
由緒 延喜式神名帳愛知郡の部に物部神社あり、国内神名帳に建て従三位物部天神とあり、垂仁天皇の御代始めて社殿を造営すという。明治初年式内に治定し尋いで村社に列せられしが今は無格社なり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
物部神社の神石の御案内 物部神社の霊璽は一塊の巨大な石で遠くは神武天皇から今日に至るまで数多くの伝説を生じております。 造営は垂仁天皇の御代とされ万民こぞって多くの加護を受けております。 社頭掲示板 |
物部神社 平安時代初期の宮中の年中行事や制度などを記した『延喜式』に載る「愛智郡物部神社」にあたるとされる恪式の高い神社である。 物部氏の祖・宇麻志麻知命を祭神とする。大石を御神体とするところから、石神神社、石神堂などともいう。社伝によれば、この大石は神武天皇がこの地を平定した時に見つけた石で、これを国の鎮めとしたといわれている。 元禄年中(1688〜1704)三代藩主徳川綱誠が荒廃した社殿を修復している。 名古屋市教育委員会 社頭掲示板 |
物部神社由緒記 この宮は延喜式神名帳帳(905)尾張愛知郡の部に物部神社、御祭神、宇摩志麻遅命と記帳され、また国内神名帳(1707)に従三位物部天神と記されています。(天神とは天津神と申し上げる称号です) 尾張府誌には神霊は一塊の大石で神武天皇が当国の凶魁を打たれた時、此の石を国の鎮めとなされたため要石称され、この古事によって石神の名が起こりこの様な大石は世に根なし石とも伝えられ(全国には水戸、鹿島の三ヶ所に存するという)。 元禄年間(1688−1703)藩主綱誠(3代)は社殿の重修、遷宮されて俗に石神堂、山神と称して近くの人々はもとより遠くの人々まで厚く信仰されています。 明治元年 式内社に治定 昭和28年 本殿拝殿造営遷座 昭和30年 斎館が造られ現在に至っています 境内には加藤博庸撰の句文碑(天明7年 1787)があります。 例大祭 10月7日 社頭掲示板 |
物部神社 延喜式神名帳愛知郡に物部神社とあり、国内神名帳には従三位物部天神とある。垂仁天皇の御代始めて社殿を造営され、元禄中藩主綱誠、重修遷宮された。俗に石神堂、山神とも称され、遠近の崇敬者により秋の山講、春の山講として特殊な信仰を厚くした。 御祭神は宇摩志麻遅命にして物部氏の祖であり、霊璽は一塊の大石にして神武天皇当国の凶魁を討ち給いし時此の石を以て国の鎮めとなし給うという俗に要石、鎮撫石と称し、尚此の石を世に根なし石とも伝へ全国に水戸、鹿島の三ヶ所に存する言う。曽つて国主光圀此を掘らしめしに竟に掘ること能わざりきと伝へ、石神の称は之より起ると、宇摩志麻遅命は神武天皇御東征の時、御父饒速日命と共に長髄彦を殺して帰順せられ後物部の軍兵を率いて専ら皇城守護の任にあたられた。 神武天皇即位に命は伝来の十種の天瑞宝と神盾を献上し、布都神剣を殿内に安置し、天皇、皇后の御魂を鎮め寿祚を祀った。 鎮魂の祭儀はこれにより始つたものであります。 由緒書 |
物部神社 由緒 延喜式神名帳に、物部神社国内神名帳に、従三位物部天神と記されている。 垂仁天皇の御代に、初めて社殿を造営され、御祭神は宇摩志遅命で、物部氏の祖であります。 霊璽は一塊の大石で、神武天皇の御代に当地の区魁を討たれ、この石を以って国の鎮めとされ、俗に要石、鎮撫石、根石ともいわれ、この神社を石神様とも呼ばれている。 社頭掲示板 |
物部神社 物部は毛乃々倍と訓べし〇祭神宇摩志麻治命、(府志)〇古井庄古井村に在す、俗石神堂と称す、(集説、府志) 集説云、在高牟神社西北、崇一巨石為神霊、古有祠荒撫者歟、元禄中故権中納言綱誠卿新建社、姓氏録、物部氏有神別皇別二種、物部首、天足國忍人命之後也、物部連、饒速日命之後、而與尾張氏同祖也、文徳実録曰、'齊衡2年12月、大僧都伝灯大法師位実敏、姓物部氏、尾張國愛智郡人也、云々、当知当郡昔日有物都氏人、当社蓋其氏神祠歟、 類社 伊勢國飯高郡物部神社の條見合すべし 國内神名帳云、從三位物部天神 神社覈録 |