第54代帝、仁明天皇(在位天長10年(833年)より 嘉祥3年(850年))勅願社とされ、熱田神宮鬼門方位の守護として鎮座されたとも伝えられています。 当社を高牟神社に比定する説がある。 津田正生の『尾張国神名帳集説訂考』では御器所村の八幡の社(当社)を物部神社に比定している。 津田正生はまた同村の天神の森をその候補地に挙げている。この場合天神の森は現在の昭和区天神町紅梅町の辺りにあった天神森天神山にあたり、その地に天満宮が鎮座していたが、天満宮は現在御器所八幡宮の境内摂社となっている。 |
御器所八幡宮 御器所八幡宮は創立年代不詳と伝えられています。 一説には54代帝であらせられる第54代帝、仁明天皇(在位天長10年(833年)より 嘉祥3年(850年))勅願社とされ、熱田神宮鬼門方位の守護として鎮座されたとも伝えられています。 嘉吉元年(西暦1441年)の棟札によれば八所大明神として尊称され、現在の名古屋市昭和区の東部に位置した御器所荘一帯の総鎮守として鎮斎されていた社です。 後代、織田信長公の家臣団に加わる佐久間家一門が、居城としていた御器所西城鎮護の社として、また、領内守護の社として尊崇された事は、嘉吉の棟札をもって知る事が出来ます。 社伝によれば、徳川家康公が、小牧長久手の合戦の前に島田城城主大島家の案内によって立ち寄られ、その後、祈願成就(戦に勝利した事)を感謝し、家康公の指示により、大島家が社殿の造営を行ったと伝えられています。(慶長5年の棟札) 往古、この地は神宮の神領にて神祭土器を調整したところから、御器所なる地名が生まれたとも伝えられ、『尾張誌』に「熱田神領にて神祭に用ふる土器を調達する故に此の名ありと伝ふ」と記されており、熱田神宮にかかわりがふかい土地柄であったと思われます。 今日では大神さまの御神徳にあやかり厄除開運、合格必勝、縁結び祈願などを始めとして神知霊能をいただかんとする人達で日夜賑わっています。 公式HP |
尾陽神社と御器所西城跡 尾張藩祖徳川義直と14代慶勝を祀る神社で、明治43年(1910)名古屋開府三百年を記念して創建され、大正11年(1922)当地に遷座した。 この地は、御器所西城跡で、築城年など不明な点も多いが、15世紀中頃にこの地を支配していた佐久間氏(一説には佐久間美作守)によって築かれたといわれている。 佐久間氏の中には、信長の父・信秀の代から織田家に仕えていた者もいた。 名古屋市教育委員会 社頭掲示板 |
御器所八幡宮御由緒 祭神 八幡大神 八劔大神 五男三女神 天児屋根命 天照大御神 彌豆波能女命 菊理媛命 木花咲耶媛命 山王大神 高蔵大神 熊野大神 御器所八幡宮は御器所の総社として往古より信仰をあつめ仁明天皇勅願熱田神宮鬼門除鎮護の大神として御器所の聖地に斎鎮祭されたと言い伝えられ、尾張志に熱田神領にて神祭に用ふる土器を調進する故に此の名ありと伝ふ、と記され殊に室町初期、八所明神と称え、御器所城主佐久間家一門の領内総鎭守居城鎮護の大神と尊崇された如くは嘉吉の棟札をもって知ることが出来る、その後、永禄の棟札、慶長5年関ヶ原役が終るや、冬徳川家康大島雲八郎光吉に依令して寄進する神護感謝の棟札は将に御器所八幡宮の広大無辺なる御神威を窺い知ることが出来る。今日では厄除開運はもとより必勝の神の信仰が根強く、入試の必勝祈願 大神さまの神智霊能をいただく人達で日夜賑わう。 御例大祭 10月14日、15日 赤丸神事 7月30日、8月1日 御器所八幡宮 社頭掲示板 |
宗円寺宝篋印塔 宝篋印塔は、「篋印陀羅尼経」を収める方形の塔で、中国から渡来したものである。 この塔は、かつて旧広見池畔(現、桜山中学校付近)の野墓にあったものを当寺に移し、復元したもので、旧態は整えられている。 基壇に「右為 道安 応安□戌平□□」との刻銘があり、様式も応安(1368〜1375}のころのものである。 市内に現存する宝篋印塔のうちでは最も古いものの一つで、昭和48年市有形文化財に指定された。 名古屋市教育委員会 社頭掲示板 |