御田神社[七所神社境内摂社]
みたじんしゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】御田神社 尾張国 愛智郡鎮座
          (摂社)七所神社境内摂社

   【現社名】御田神社
   【住所】名古屋市中村区岩塚町上小路 7
       北緯35度9分31秒,東経136度50分26秒
   【祭神】保食神
   【例祭】 
   【社格】
   【由緒】応永32年(1425年)この地に熱田七社を勧請し祀った

   【関係氏族】
   【鎮座地】熱田の御田社の旧地とされている

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 七所神社
   【社殿】本殿
       

   【境内社】
   【境内図】 境内図

庄内川堤防の下にある。熱田の御田社の旧地とされている。
末社御田神社は近年建立されたものであつて、これは昭和7年に「御田天神」と刻まれた平安時代の鏡が発見されたことから、小塚を作り、小社を建立、のちに東の現在地に遷座されたものであるという。
もと村の東南烏森(かすもり)村の境の字三田(さんだ)の天神宮にあつたという所伝がある。
岩塚村は、古来、熱田神宮の神領地であつたらしく、この七所社は、荘園時代に当地が熱田の神領地とされたことにより、御本社の熱田七社の神々を勧請したことに起因するものと考えられる。
式内御田神社は七所神社境内摂社の御田神社に比定する説と七所神社に比定する説がある。


由緒

一、鎮座地、名古屋市中村区岩塚町 字 上小路七番地
一、祭神、日本武尊、天照大神、豊宇気大神(御田神社)草薙御剱、宮簀媛命(みやすひめのみこと)乎止与命(おとよのみこと)高倉下命(たかくらじのみこと)
一、尾張地名考に「岩塚村に延喜式の愛智郡御田神社、本国帳の従三位御田天神とあるは七社明神を言うなり」とあり、神社に祀られている神鏡に元慶8年(884年)の銘があるところからこのころの創建と考えられる。尾張志に「熱田七社神を祀る故に社号を七社と言う。応永32年(1425年)に吉田治郎右衛門守重、社殿修造(棟札あり)す。境内に縦横26尺の塚あり。そこに縦4尺ばかりの岩立てり。不生石と称し故に村名を岩塚という」と記されている。この岩は日本武尊腰掛岩と伝えられ、塚(古墳と考えられる)と共に現存している。この神社境内は太古より古木繁り清浄な神域であった。吉田社家の祖、岩塚城主吉田守重は足利尊氏の一族で尾張の守足利高径の祖父宗家の兄の系(大系図による)であり、この岩塚および隣邑を領有していたが、武威盛んで民を愛し敬神の志厚く常に国家の太平を祈り(尾張雑記)応永32年(1425年)にこの神域に熱田七社を勧請し祀った。
境内末社の内、白山社、熊野社、石神社、若宮社、天神社、神明社はかって村内に別に社地を有し鎮座されていたが享保19年(1734年)に当社境内に遷座された。現在七所社の祭礼として行われている「きねこさ祭」は御田祭とも言われ、もとは御田神社の祭礼であったものが七所社に受け継がれ連綿として続けられているものである。この祭では、昔は吉田神官に四位の束帯を差許され(文化3年裁許状)、その後当社 神官は従五位下に叙せられた(天保12年2月宣旨)

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




御腰掛岩由来

景行天皇四十年に日本武尊は東夷征伐の勅を奉て転戦四年ことごとく之を平定し給ひ、凱旋の時に大河の渡船を待つましばらく御腰を掛け給へる石なり。
七所社御縁記略記

社頭掲示板



御田神社

延喜式内の御社なり其旧址は当岩塚なり。
今に其祭式存す、正月17日の御田祭是なり。
神代に尾張開拓の神を天香語山命と申す。
此命人々に衣食の道を教え給う。
稲を耕作するには先つ田神豊宇気大神を祀り給う。
其祭場のあと御田社是なり。

社頭掲示板



七所神社

尾張地名考に「岩塚村に延喜式の愛智郡御田神社、本国帳の従三位御田天神と あるは七社明神を言うなり」とあり、神社に祀られている神鏡に元慶8年(884) の銘があるところからこのころの創建と考えられる。
尾張志に「熱田七社神を祀る故に社号を七社と言う。応永32年(1425) に吉田治郎右衛門守重社殿修造(棟札あり)す。境内に縦横26尺の塚あり。 そこに縦4尺ばかりの岩立てり。不生石と称し故に村名を岩塚という」と記され ている。この岩は日本武尊腰掛岩と伝えられ、塚(古墳と考えられる)と共に 現 存している。
この神社境内は太古より古木繁り清浄な神域であった。吉田社家の祖岩塚城主 吉田守重は足利尊氏の一族であり。尾張之守足利高経の祖父宗家の兄の系〔大系 図による)であり、この岩塚および隣邑を領有していたが、武威盛んで民を愛 し経神の志厚く常に国家の太平を祈り(尾張雑記)応永32年(1425)にこ の神域にあった七社を勧請し祀った。熱田神宮、八剱宮、大幸田神社、日割御子 神社、高座結御子神社、氷上姉子神社、上知我麻神社、の七社である。
境内末社の内、白山社、熊野社、石神社、若宮社、天神社、神明社はかっては 村内に別に社地を有し鎮座していたが享保19年(1734)に当社境内に遷座された。
現在七所社の祭礼として行われている「きねこさ祭り」は御田祭りとも言われ、 もとは御田神社の祭礼であったものが七所社に受け継がれ連綿として続けられてい るものである。
この祭りでは、昔は吉田神官に四位の束帯を差許され(文化3年 裁許状)、その後当社神官は従五位下に叙せられた(天保12年2月宣旨)。

公式HP



七所社・きねこさ祭

この社の創建は、保存されている神鏡に「元慶8年(884)御田天神」の銘があり、そのころと考えられている。「応永32年(1425)岩塚城主吉田守重社殿修造」の棟札も残されている。尾張三大奇祭の一つとして五穀豊穣・厄除等を祈念し、毎年陰暦1月17日に行われる。当日は、一本の笹竹を12人の役者が持って庄内川に入り、笹竹の折れる方角でその年の吉凶を占う。市の無形民俗文化財に指定されている。なお、本社境内及び周辺には、数基の円墳が残っている。
名古屋市教育委員会

社頭掲示板



郷社 七所神社

祭神 日本武命 宮簀姫命 宇賀御魂命
   乎止與命 須佐之男命 天穗日命 天忍穂耳命 創立年代詳ならず、但張州府志に「祀熱田七神」と見えて、尾張志に「天慶4年茂戌勘請すと社説に云り」とも見ゆ、これ承平中平将門反して東国に拠るや熱田神輿を星崎に出して其誅伏を祈りしに速に神威あり、之を以て爾後天下の安穏を祷らんが為熱田七社を祈りしに因るとの傳説に基けり、又永承年間の勘請とも或書に見えたり、爾来当所の産土神たりしが、貞享4年4月伊神長大夫好運当社を再建せりと、明治5年郷社に列す。
社殿は本殿拝殿、神輿庫、社務所等を具備し、境内地1311坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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