日置神社
ひおきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】日置神社 尾張国 愛智郡鎮座

   【現社名】日置神社
   【住所】名古屋市中区橘 1-3-21
       北緯35度9分18秒,東経136度53分58秒
   【祭神】天太玉命 (配祀)品陀和気命 天照皇大神
       『張州府志』『尾張志』『尾張名所図会』応神天皇
       『特選神名牒』大山守神

   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀年代不詳
       永禄3年(1560)5月織田信長桶狭間の戦で戦勝祈願
       天正年間に品陀和気命を勧請して合祀
       文禄元年(1592)6月6日火災
       寛文4年(1664)火災炎上
       天和3年(1683)境内を割いて妙善寺が建てられる
       明治4年郷社に列せられ、日置神社に改称
       同40年10月26日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】日置氏(日置部)
   【鎮座地】鎭座地が遷つたという社伝はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿流造
       渡殿・神饌所・拝殿・神樂殿・手水舎・社務所・倉庫

   【境内社】稲荷社・橘社・津島社熱田社秋葉社合殿
        加具土神社須佐之男神社合殿・迦具土神社須佐之男神社合殿・火具土社


市街地の中に鎮座する。
創祀年代については不詳であるが、当地に居住した日置氏(日置部)によつて奉齋された。
中世に山城男山から八幡神を合祀して八幡宮と称し、明治初期に現社名に変更した。鎭座地が遷つたという社伝はない。
永緑3年(1560)の桶狭間の合戦の時に、織田信長が清須より出陣の際、当社に武運を祈り、戦勝の報賽のために松樹千本を当社境内に植えた。
天正年間に品陀和気命を勧請して合祀し、それ以後、日置八幡と称したという。


由緒

創立は不祥であるが延喜式に「尾張國愛智郡日置神社」とある。尾張國内神名帳に「従三位日置天神」とあり、また同貞治本には「従一位」とある。中世に、山城國男山から八幡大神を勧請して合祀。永禄3年5月、桶狭間の役に織田信長出陣の途次当神社に祈誓あって、戦勝後、報賽のため神域に松樹千本を植えた。俗に当神社を「千本松日置八幡宮」と崇めた。明治維新の際、社号復旧「日置神社」と改む。明治4年郷社に列格。同40年10月26日神饌幣帛料供進神社に指定される。同42年10月隣接の村社神明社を合併、相殿に配祀する。昭和20年戦災を受く、同33年社殿復興造営完成。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




日置神社

平安時代初期の宮中の年中行事や制度などを記した延喜式に載る「愛智郡日置神社」にあたるとされる格式の高い神社で、天太玉命、応神天皇などを祭神とする。
日置の地名、社名は、日置部のあったところから起こったもので、日置部は暦を司った。
永禄3年(1560)5月織田信長が桶狭間の戦いに出陣するとき、戦勝を祈願し、戦勝のお礼に松を千本植えたと伝える由緒ある古社である。
名古屋市教育委員会

社頭掲示板



日置神社碑

太古の代吾皇祖の国土を修理固成し給ふや民人に時を授るを以て大政の要となし給へり然れば神代に天櫛耳命は其祖天櫛玉命の御業を継て其神孫を所々に住しめ日置たる暦法を頒布せしめ給へり尾張国愛知郡日置郷其一にて此所に祖神を祀りて日置神社と称すこれ即当社にして延喜式所載神代鎮座の官社なり後に八幡大神を合祀して日置八幡宮とも称す爰を以て国主代々奉祭し武将織田信長公に至りて殊に崇敬あり永禄3年桶狭間の役当社に祈誓ありて凱旋の時松樹千株を植られし故に神境を千本松と称せり然るに寛文年中神境に町家を立て天和年中神境を割て寺院とし明治維新に至りて半過ぎて上地となり古木も斬々枯失て一本残りしも昨年枯果て古代の風は甚く変れり然は有ども斬る尊き御社なるを以て今し郷社と崇めらる爰に社司及び氏子の人々相議て古の御栄の状を石に彫て一本在し松の跡所に築立し後世に伝へまくを己に其由書付てよと有に斬なむ
明治30年5月22日
熱田神宮宮司 正六位 角田忠行
 福岡欽崇 書
 高木正斎 鑽

社頭掲示板



葛飾北斎大達磨揮毫の地

文化14年(1817)10月5日、名古屋に滞在中の江戸の浮世絵師葛飾北斎は、ここ本願寺別院(西別院)において、120畳敷の料紙に達磨の大画を描き、町中の話題をさらつた。
この日、彼は昼ごろから描き始め夕方には完成したといわれる。
昭和20年、この絵は惜しくも戦災のため失われたが、当寺の催しを知らせる引札(宣伝ビラ)が名古屋市博物館に保存されている。
名古屋市教育委員会

社頭掲示板



医学講習場跡

明治7年(1874)西本願寺別院境内のこの地に、仮病院の附属として医学請習場が設置された。
その後、公立医学講習場、続いて公立医学所と改称された。ここでの医学教育は、当初アメリカ人教師により講義は英語で、教科書も英語の原書で行われた。
明治10年(1877)堀川筋の天王崎に移り、14年には愛知医学校と改称され、その後も改称を重ね、戦後名古屋大学医学部となった。
名古屋市教育委員会

社頭掲示板



日置神社

日置は幣岐と訓べし〇祭神日置朝臣祖歟○山田庄日置村に在す、俗千本松八幡宮と称す、(集説)○古事記、(応神段)大山守命者、幣岐君等之祖、』姓氏録、(右京皇別下)日置朝臣、応神天皇皇子大山守王之後也、
類社
近江國高島郡、信濃國更級郡、若狭國大飯郡、加賀國江沼郡、越中国新川郡、但馬國気多郡日置神社、(各一座)
神位
國内神名帳云、從三位日置天神、

神社覈録



郷社 日置神社

祭神 天太玉命 品陀和氣命
創立年代詳ならずと雖も、姓氏録に「日置朝臣応神天皇大山守王之後也」とあるより見れば、当地方にさかえたりし日置氏の人が其祖神を記れるものなるべきは推知するに難しとせず、醍醐天皇廷喜の制小社に列す(喜式)降って正親町天皇永禄年中織田信長桶狭の役に軍を出さんとして当社に祈り、霊鳩の瑞あり、果して大捷を得たり、因て奉賽の為松千株を植ゑしかば、之より千本松八幡宮と称す、後之に商家を建てゝ美松を卒ね倒されぬ、今云ふ橘町などの邊なり(尾張名所図会、府志)、又日置八幡とも称せり、本国帳には從三位日置大神と載せたれば昔は八幡と呼ばざりしなるべし、明治維新の際当社號に復して日置神社と改め、同6年郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、神饌所、玉串門、井戸屋形、渡殿、祭文殿、玉垣、宝藏、透垣等を具備し、境内地1323坪2合(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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