東谷山頂上に鎮座する。 成務天皇5年に宮簀媛命の勧請によって創建されたという。 社名の尾張戸(部)は尾張氏族に基づいていると思われ、尾張戸神社は尾張氏の氏神であつたと思われる。 天香語山命(高倉下命)は、庄内川対岸の高蔵山に降り立ち、のち東谷山に移ったという。この際に白鹿に乗って川を渡ったという。 東谷山の西麓(志段味側)は古墳群で、当社の社殿も古墳の上に建つている。 古墳を主体とし、それから発生した神社であろう。 かつては熱田神宮に次ぐ大社であったとする伝えもある。 |
尾張戸神社 「延喜式」に山田郡尾張戸神社とあり、成務天皇五年、宮簀媛命の勧請と伝える古社で、祭神は天火明命ほか四神を祭る、大永元年(1525)火災にあい、尾張守護斯波氏が得興した。 その後藩祖義直二代藩主光友の崇敬厚く、社殿の修築などをしている。 また昔から疫病除けの神として知られている。 名古屋市教育委員会 社頭掲示板 |
尾張戸神社・尾張戸神社古墳 「延喜式」に山田郡尾張戸神社とあり、成務天皇5年、宮簀媛命の勧請と伝えられ、古代豪族・尾張氏と深い関係をもつ古社である。天火明命ほか二神をまつり、疫病除けの神として知られる。 社殿下の高まりが尾張戸神社古墳である。発掘調査の結果、直径約27.5mの二段築成の円墳であることがわかった。 斜面に大ぶりな山石が葺かれ、一部に白石(石英)が混ざること、埴輪がみられないことなどが、山裾の白鳥塚古墳と共通することから、4世紀前半築造の古墳と考えられる。 平成26年10月、「志段味古墳群」を形成する一つとして、国の史跡に指定された。 名古屋市教育委員会 社頭掲示板 |
尾張戸神社 愛知県東谷山の神社 尾張戸神社(おわりべじんじゃ)は名古屋市と瀬戸市にまたがる、標高198mの東谷山(とうごくさん)山頂の文化庁史跡東谷山古墳に鎮座します。 「延喜式」に山田郡尾張戸神社とあり、成務五年(西暦135年)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)の勧請と伝えられています。千年以上前の事になります。 また、延長5年(西暦927年)に選進された「延喜式神祇巻」に公式の記録が載っております。 つまり、尾張戸神社は延喜式内神社で近隣でも稀な古社であります。 また、約800年前文治二年(西暦1186年)の「尾張国内神名帖」によれば、従3位の神階に列せられた大社でありまして、広く衆人から東谷大明神と称えられ篤く崇敬されました。 歴史・沿革 中世は乱世が続き、神社の多くは重なる火災や盗難のために荒廃の一途辿りました。当社もその例に漏れず僅かに神社の面影を留めるほどの小社になりました。 その間物情騒然とした時勢に関わらず当社の尊貴な草創に注目した斬波氏(足利氏の流れを汲み、義重の時代に尾張守護となる)が荒廃した社殿を新しく御造営致しました。 また、近世には尾張藩祖徳川義直公、並びに第二代藩主徳川光友公が当社を国号を称する尊貴な神社として、更には金城の鬼門の守護神として崇敬せられ、以後はその伝統によって藩費を持って社殿の修復が行われてきました。 太平洋戦争以後、名古屋市志段味地区、瀬戸市水野地区の氏子が隔年で当番に当たり尾張戸神社を守ってきました。 公式HP |
志段味古墳群 名古屋市最高峰の東谷山がある守山区上志段味には、総数約70基を数える志段味古墳群があります。 東谷山には、4世紀前半に山頂に尾張戸神社古墳(円墳)が、4世紀中頃に、東海地方で最も古い埴輪をもつ中社古墳(前方後円墳)と南社古墳(円墳)が造られました。6世紀後半以降は、横穴式石室を埋葬施設とする小型の古墳が数多く築かれました。 社頭掲示板 |
尾張戸神社 尾張は國名に同じ、戸は倍と訓べし、○祭神尾張部祖歟○山田庄下水野村に在す、今当國明神と称す、(集説、府志)〇姓氏録、(河内國皇別)尾張郡、彦八井耳命之後也、 集説に、按、戸與都同訓、姓氏録曰、云々、與尾張宿禰等不同姓祖、と云るは尾張部祖神には非ずといふが、明かならず、考証に、山田庄陶村、倭名鈔云、主恵、古事記、大戸比売神、此者諸人以拝竈神者也、日本紀、甕此云倍、大嘗會式、尾張國所造進甕巳下十六種、集説に、以此考之旧則蓋尾張甕神歟、』張州府志に、祀天火明命、配享日本武尊、建稻種命、と云り未執れか知らず、 神位 國内神名帳云、從三位尾張部天神、 神社覈録 |
郷社 尾張戸神社 祭神 天火明命 建稻種命 天香山命 創祀年月詳かならずと雖も、醍醐天皇延喜の制小社に列せられしより見れば。少くとも其以前の鎮座たるを推知すべし(延喜式)、当祭神建稲種命は当国造尾張氏の祖先にして、天火明命は其遠祖に当り、天香山命は火明命の子なり、当社一に当國明神といふ、敬公の時此山より古鐵笛当国明神と銘あるものを得たり(社記、府志、尾張名所図会、張州史略参取)、当国明神とは当國を開拓せし神なりしとの義なるべし、又一に東谷明神と書くは、東谷、当國、音相通すればなり、当時の鳥居跡と称するもの下水野村に在るを以て見れば、社域頗る廣大なりしものゝ如し、当国帳に從三位尾張戸神社とあり、名勝誌に「尾張戸は尾張部也、姓氏録云。尾張彦八井耳命之後也云々と見えたり、足利氏の頃、斯波氏之を修め(社記、瑞龍院殿鷹狩の時神號を尋ねられしに、式内尾張戸神社今は当国明神と申す由啓せしかば、國名を称し奉る上金城の鬼門を守りたまへるめでたき社なりとて、寛文11年社殿を修造せらる(名所図会)、爾來藩費を以て営繕を加ふるに至る(社記)、明治5年5月郷社に列す。 社殿は本殿、拝殿を具へ、境内17270坪(官有地第一種)あり、 明治神社誌料 |