星神社
ほしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】坂庭神社 尾張国 山田郡鎮座

   【現社名】星神社
   【住所】名古屋市西区上小田井 1-172
       北緯35度12分53秒,東経136度52分52秒
   【祭神】大己貴命 (配祀)天香香背男神 牽牛 織姫
   【例祭】10月10日 秋季例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       仁和年間(885−88)大江音人の子孫により社が建立
       弘安3年(1280)兵火で焼失
       明治5年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初現在の坂井戸町に鎮座

   【祭祀対象】星
   【祭祀】江戸時代は「星ノ宮神」と称していた
   【公式HP】 星神社
   【社殿】本殿八幡造銅板葺
       祭文殿・拝殿・神樂殿・手水舎・参集所

   【境内社】天神社・神明社・津島社・金刀比羅社・秋葉社・稻荷社・国府宮

庄内緑地公園北に隣接して鎮座する。
仁和年間(885?888年)にこの地の付近に住んでいた大江音人の子孫により社が建立
毎年7月7日(旧暦)境内に祭場を設け奥に土壇を築き酒を注ぎ天香々背男神に牽牛、織女の二星を合せ祀るので酒庭星社と言い伝えられている。


由緒

鎮座地名古屋市西区上小田井1丁目172番地
祭神、大己貴命、天香々背男神、牽牛、織女
延喜式神祇巻第九尾張国山田郡19座、並小ノ内17座目、坂庭神社とある是なり現在の坂井戸町にありました。
尾張本国帳に従三位坂庭神社(天神)(一本に作正四位下)とある、毎年7月7日(旧暦)社内に祭場を設け奥に土壇を築き酒を注ぎ天香々背男神に牽牛、織女の二星を合せ祀る故に通名酒庭星社と言い伝えています。
この星祭りは古く仁和年中(約1100年前)大江音人の子孫 政盛(現在の上小田井一丁目西部)に居住す、秀才な人でしたが本望が遂げられず故に朝夕当神社に祈ること3年京へ行き官職に就く、その後政盛の一子五郎政輝、当神社を崇敬すねこと父の如く学問に精通し書道にも優れ、父と同様京へ行き官職に就く当地を去るに及び近隣の人々に感謝して言ふ「私は此の神社のお蔭にて願望を達することが出来て感謝に堪えないみなさんにお願いは皆さんの為に当神社の祭礼を怠る事無く奉仕して下さい」と言って大江社と言う社を建立して当地を去った。
弘安3年軍卒多数来て当神社附近で火事が起こり当神社悉く焼失しました、故に祭典が出来なくなりました、その後60余年右近中将藤原朝臣実秋悲しみて社殿、回廊、拝殿、楼門等を新築して祭典を起こしたので復興しました。
社領4町8反(神官、社家両職あり)信長公の御代までありましたが太閤殿下の御時残らず召し取られたる由。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




星神社

祭神 大己貴命
由緒
仁和年中今日ヨリ1060年前大江音人政盛アリテ大江五郎政輝トイウ今ノ五郎左ノ切トイウハ五郎氏ノ邸宅ノアリシ所ナリトカ
弘安3年兵火起リテ当社悉ク焼失ス故神社□□シ暦応4年ニ至リ右近中将藤原朝臣実秋之ヲ歎キ社殿回廊拝殿楼門ヲ新築シ礼奠ヲ起セシカバ祭典亦復興セリ。
社領四町八反神官社家両職有之信長公ノ御代マデアリシトカ然ルニ其後太閤殿下ノ御時残ラズ召シ取ラレタル由

社頭石碑



星神社とムクノキ

星神社は、大国主命、天香々背男、牽牛織女を合祀し、坂庭神社として延喜式内社になっている。8月7日の七夕祭は特別由緒ある祭礼で、昔は酒を祭庭にそそいだことから坂庭となり、坂井戸という地名の由来になったといわれる。樹盛旺盛なムクノキが庄内川ぞいにこんもり茂っている。。



星神社

延喜式神祇巻の第九巻に尾張國山田郡十九座ノ内十七座目坂庭神社とあるこれが今の星神社のことです。
〔延喜式とは平安時代中期905年〜927年に編纂された格式(律令の施行細則)で三代格式の一つである〕
尾張本國帳に従三位坂庭神社 天神とある。是も星神社のことです。
坂庭星社では、毎年7月7日(旧暦)境内に土で壇を作り綺麗に清めて、天香香背男神と二柱(牽星・織女星)を合せてお祀りして、祭典の時にお酒を祭庭に灌ぐ云々、故に酒庭星社と呼ばれていました。
当社の星祭は大変古くから執り行われていました。 仁和年中(885年〜889年)大江音人の子で政盛という人が、訳があって当社の近く(現在の上小田井)に住んでいました。才能のある人でしたが思うようにいかなくて困っていました。 そこで、朝晩当社の神様に祈り続けて三年目に京の都に帰る事が出来ました。 是より前に妻がいまして、一人の男子を生みました。大江五郎政輝と言いました。(旧町名の五郎庄ごろしょうの切りというのは、当時の五郎氏の邸宅が在った所です。) 政輝も、星神社を父と同じように崇敬して文才も有り筆道にも長けていました。成人して後に、又京都に帰り官職に就きました。京に帰るとき、神様に誓って言いました。「私は、此神社の祭に逢い幸に志願を達することが出来ました。どうか皆さんの為に神様をお祀りして下さい。」と別に新たに社殿を建てました。是則ち大江社であると言われています。
弘安3年(1280年)大勢の軍勢が神社の近くまで押し寄せて大火事が起こって当社は全て焼失してしまいました。 その為神社は衰微して祭典を執り行うことも出来なくなりました。 暦應4年(1341年)になりまして、右近中將藤原朝臣實秋がこのことを嘆いて社殿・廻廊・拝殿・樓門等を新築して神社を再建しました。そして星祭等の祭典も復興しました。
神社の所領は四町八反も有りました。(神官・社家両方の家が有りました。)信長公の時代まで有ったそうですが、その後太閤殿下の時代に残らず召し取られたのです。
当所の城主で小田又六(信長公ノ時代)が城内に井戸を掘ったので、坂庭の坂も字をとり、村名を坂井戸と言うようになりました。 其後又六殿の氏の字小田の下に井の字を添へ小田井と言うようになりました。 是より坂井戸村は小田井村の惣名となり、今の坂井戸は当時の俤を残すものです。

公式HP



摂社 諏訪社

尾張の地誌・張州雑志に、小田井城主織田又六信張の館の鬼門に勧請された祠として伝えられ、その後、星神社境外摂社となったと考ぞられる。平成29年当地に遷座上下二社を併せ祀る。
諏訪社の伝説
昔、境内に雷が落ちた時、御祭神は怒って、金網で雷を捕まえ、二度とこの地に落ちないことを誓わせて、天に返した。以来この境内に雷が落ちることはなくなったという。
諏訪社は風の神様でシンボルは鎌であり、秋に台風が近づいてくる時は諏訪社に参って竹竿の先に草刈り鎌を縛り付けて、刃先を風の吹く方に向けて高く立てて「ホーホーホー」と大声で風を追うと、台風は、方向を変えて、風が静まるという。

社頭掲示板



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