印場駅東、旭野高校西に鎮座する。 当社を渋川神社に比定することで異論は存しない。 天武天皇5年(676)9月21日、新嘗のための国郡をト定したところ齋忌(ゆき)は尾張国山田郡と定められ、この時の齋場にちなむとされている。 |
由緒 この神社は景行天皇の御代に高皇産霊大社を創始したと伝えられ白鳳5年天武天皇ご即位の大典に際し大嘗祭の悠紀斉田を当地に定められるに当たり、大年大神 御食津大神 庭高日大神 河須波大神 波比伎大神 大宮売大神 八重事代主大神の7柱を合祀申し上げ、醍醐天皇の御代延喜式の制定により、神明帳に列せられた式内社であります。 当社創建の地は、ここから西南方数百m渋河(そぶこ)と、考えられるが、祭神7柱合祀を機に今の地に御遷座のものであります。 往昔は山田郷の総社として広く尊崇せられ、織田信長が神殿を改修し、後に徳川光友が神殿を再建、それぞれ幣帛を奉じている。 この鎮守の森には檜、松、樫等が鬱蒼と生い茂り、旧瀬戸街道を旅ゆく人々、馬が緑陰に憩い神苑にこんこんと湧く真清水を菊したが、昭和34年の伊勢湾台風によって一夜にして樹木が薙ぎ倒され、樹齢三百数十年を数える檜の大樹数十本を損失した。 氏子総出で倒木を整理の上、檜と杉を交植し年毎に昔日の姿に近づきつつあるが、湧水は遂に枯れ果ててしまった。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
鳥居の古塚について 渋川神社の正中約600m、広がる田圃の中四季折々に風情を添える木立の古塚が在り、天武天皇の悠紀斉田の入り口として鳥居の敬称で里人に親しまれ聖地としてきたが、この度区画整理のため、取り崩す運びとなり、此の由緒の地の消滅を惜しみ、初老の同志相謀り、塚に建っていた、石碑を神苑に移し、後世の諸人に伝えんとする。 平成4年10月吉日 社頭掲示板 |
渋川神社 当社は、1900年前景行天皇の御代に現在地の南凡そ500mの蘇父河(そぶかわ後に澁川)の地で、地元民勧進により、高皇産霊大神(たかみむすびのおおかみ)が、創祀されたことに由来すると云い伝えられます。 その後、天武(白鳳)5年(西暦676年)天武天皇即位に伴う大嘗祭で、この地域に新穂を収穫する悠紀斎田が定められたのを機に、現在地に遷座し、同時に大年神(おおとしがみ)など、七神が合祀されました。 また、延喜年間(西暦929年)には式内社に撰進され「山田郡の総鎮守」として、朝廷からの幣帛も授かる存在となり、約450年前武将織田信長が本殿を改修、貞享5年(西暦1688年)には、尾張藩主徳川光友により、本殿が改築されるなど、史上の著名人にも崇敬された由緒ある神社です。 平成14年社殿を焼失し、平成20年に本殿と祭文殿と拝殿が一直線に並ぶ尾張造りの社殿が、再建され、現在に至っています。他に境内には東五社ノ宮、西五社ノ宮、新明社、熊野社、八幡社、忌明社、山神社が、末社として祀られ、明治・大正期には近郷集落より、八剣社、稲荷社、津島社も遷座されました。 公式HP |
遺跡のご案内 旧本殿跡 この場所から、およそ600m南に鳥居塚と呼ばれるところがあったといわれ、そこに昔鳥居が立っていたと伝えられています。 中世のころその場所から現在の地に祭神を移し柱を建てたのが始まりといわれています。 江戸時代貞享5年(1688)に三間社流造りの本殿(13.22u)が建てられ、平成14年5月まで現存していました。 潮干塚の伝説 旧本殿跡の北側のところ、塚の上に甕があり、海の潮の満ち引きに従い、甕の中の水が増減したと伝えられています。 渋川神社は、天武天皇の時代白鳳5年(676)に創建。式内社 社頭掲示板 |
黒石 森平三郎氏によって書かれた渋川の郷土誌「祖父子誌」には「古き黒石あり 是は慶長の昔名護屋城築城の際 某藩の人足共が運搬中誤て天神川へ落としたる石なり 大正10年神社境内玉垣改修に当たり之を境内に移す」と書かれています。この黒石は川底の暗い世界から境内の明るい陽の世界に移されて、人々から開運の石として崇められています。 渋川神社 社頭掲示板 |
旧瀬戸街道 江戸時代中期以降にできあがった旧瀬戸街道は、瀬戸で生産された陶磁器を名古屋へ、名古屋からは炭や松の木などの燃料を瀬戸に運ぶなど盛んに人や荷物が行き交う重要な街道でした。現在の瀬戸街道が整備されてからは行き交う人も少なくなりましたが、旧街道の緩やかに曲がる道に当時の面影をみることができます。 明治から大正時代に入っても荷物の運搬には馬が使われ、印場でも馬稼ぎ(馬を使った運搬業)が盛んに行われました。持ち馬も多く、馬は家の玄関先で飼われるなど家族と同じように大切にされました。 渋川神社の境内にはきれいな水が湧き出ていて街道を通る馬や人がこの水を飲んで休憩をとっていたといい、神社には旧街道を行く人々の絵が描かれた巻物が残ってます。 尾張旭市教育委員会 社頭掲示板 |
儺追水について 昭和59年の尾張大国霊神社の儺追祭に伝統の大鏡餅を当市に於て奉納となり神田に斎種蒔下し早乙女が玉苗植え渡して八束穂と稔りし抜穂の御祭を任奉りつゝ裏面に記名の人々が中核となり奉賛会を結成した奉賛の波紋の輪は次第に大きく高く全市に盛り挙り如月8日の暁から旭プラザの広場にて揃ひの鉢巻ヒ絆天に身を固めた二千数百の男女の奉賛者が忌火で蒸した六十俵の粳米を並列した十三箇の石臼で杵の音も勇ましく白山林合戦太鼓教々の郷土芸能に賑々しくタ刻近くに搗き上げ厳しく美しき大鏡餅を睦び和ぎ楽しみつ目出度捧げ奉った。 此の盛儀を永久に記すため餅臼を神苑に据へ浄水を堪え儺追水と銘しこれを掬す諸人身健に寿命永く幸多かれを祈る。 昭和59年10月古日 澁川神社宮司朝見武彦謹稿 社頭石碑 |
澁川神社 澁川は之布加波と訓べし○祭神詳ならず、○田中庄印場村に在す(集説、府志) 張州府志云、印場或作齋場、今俗云、蘇父方言以澁為蘇父、蓋指地洩也、祀御歳神、高御魂神、庭高津日神、大食津神、大宮売神、事代主神、阿須波神、波比岐神、薄云、当社天武天皇御宇鎮坐、中世罹兵焚為烏有、故不可得考、連胤按るに、齋場八神を祭れるが実ならば、和泉國和泉郡積川神社に坐摩巫祭神五座を祀れるの類か、 類社 河内國若江郡澁川神社の條見合すべし 神位 國内神名帳云、從三位澁川天神、 神社覈録 |