北陵中学校西。国道に面して鎮座している。 社名の「ワタ」は、綿津見神の神名によつたものであろう。 この地を「志賀」と称し、九州志賀の志加海神社を祀る安曇族が祀るという。 当社の鎭座地は平手政秀の居住地で政秀の崇敬が厚く、社殿の修造や所領の寄進を賜つたという。 江戸時代を通じて当社は、八幡宮・八幡祠・八幡社と称していた。 |
由緒 延喜式神名帳、国内神名帳、尾張名所図絵等に記載される古社である。鎮座地は織田信長公の忠臣平手政秀の居住地であり、両者からも厚い崇敬をうけた。旧郷社。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
綿神社 延喜式神名帳に「山田郡綿神社」とある。綿とは、本国帳に「従三位綿天神と見えたり。綿は海のかり字にて、海童神を祭る。」と記され、又祭神の一柱である玉依比売命が海神綿津見神の女であることから由来している。 この志賀の地に邸を構えた平手政秀は、荒廃した社殿を再興し、鏡と手彫りの狛犬を奉納して主君信長の奇行・粗暴の平癒を祈ったと伝えられている。又尾張徳川家も代々当社を崇敬することが厚かった。 名古屋市教育委員会 社頭掲示板 |
式内綿神社由緒 主祭神 玉依比売命(神武展のの御母) 応神天皇(八幡様) 1.綿神社の創建は大変古く、文字の使用もなかった弥生前期□□弥生人が此の地に定住し稲作農耕文化を東海以東へ広めた基となった、其の中核は北九州「志賀」の安曇部族であろう。則ち故郷九州「志賀」には祖神、海神の裔「玉依比売命」を祀り「海神社」と称し、此の地も亦「志賀」と偲び名も同じく玉依比売命を祀って「海神社」と称した。 既に「延喜式」にも「尾張の山田郡綿神社は筑前志加の海神社と□□の社なり」と記され、本国帳にも「従三位綿天神(略)綿は海の仮字で昔は此のあたりまで入海にてさる神社のおわしますなり(略)とある。 文字の転化は縁起や因縁等時代により珍しい事ではない。 2.志賀村の領主平手政秀(織田家の家老信長の師傳役)常に信長の奇行を心痛せるが、天文21年綿神社を再建、「願主政秀」と刻名せる神鏡と自ら手彫りの狛犬一対を奉納した。 政秀の祈願は察するに余りあるも、祈願空しく翌年天文22年正月13日遂に諌死するに到った。爾後信長の態度一変、天下平定の基を開いたのも実に政秀の誠忠に依る。即ち政秀なくば郷土三英傑の出現も又疑問ではなかろうか。 注(1)綿神社は尾張藩主の崇敬も篤く「別社鬼子宮」もあり御幼君には御札守り等も差し上げ、赤丸神事の例祭3月14日には子供を連れての庶人参詣群をなす様は「尾張名所図会」にも描かれている「児子宮」は徳川時代志賀村が東西に分かれた時東志賀村へ移譲された。 注(2)慶長以後の再建も数度ありしが現社殿は太平洋戦火により名古屋城と運命を共にしたのを明治百年記念事業として昭和45年に完工されたものである。 社頭掲示板 |
綿神社 『延喜式神名帳』に山田郡、綿神社・小社とあり『国内神名帳』には従三位和田天神とある。『尾張志』『尾張名所図会』には綿は海(わた)のかり字で海津見神を祀る。昔はこの辺りまで入海にて志賀は水辺の里を呼ぶ地名という。その後社地近くに、織田信長の忠臣平手政秀住み崇敬あつく神田一反七畝十七歩と狛犬を寄進する。慶長17年壬子年(1612)6月28日、社殿修造あり、尾張徳川公城北鎮護の神として崇敬あつく度々社参、修造料を献進した。明治5年式内社に治定あり、郷社に列格する。昭和45年社殿を造営境内の整備を行う 愛知縣神社名鑑 |
綿神社 平安時代初期の年中行事や制度などを記した廷喜式に載る「山田郡綿神社」にあたるとされる格式の高い神社で、誉田別尊、玉依比売命、神功皇后を祀る。社名は、玉依比売命が海神綿津見神の娘であることに由来している。 戦国時代、この地に屋敷を構えた平手政秀は、荒廃した社殿を再興し、鏡と手彫りの狛犬を奉納し主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を願ったといわれている。 名古屋市教育委員会 社頭掲示板 |
綿神社 綿は和太と訓べし○祭神和田首祖、(集説)○在所詳ならず○姓氏録、(和泉國神別)和田首、神魂命五世孫天道根命之後也、 考証云、綿津見神、又和太連祖天児屋命、 神位 國内神名帳云、從三位綿天神、(一本作和田) 神社覈録 |
郷社 綿神社 祭神 神功皇后 玉依比売命 応神天皇 旧と綿八幡とも称す、尾張志に「今八幡社と申す」と見ゆ、創立年代詳ならすといへども、延喜式内社にして、奉唱国帳に従三位綿天神」、参考に「一本作正四位下和田、」と見えたり、明治5年5月郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、祭文殿、社務所を備具し、實に慶長17年6月28日の再建たり、境内地586坪(官有地第一種)あり、因みに当社祭神につき、名所図会に云く、 綿は海のかり字にて、海童神を祭りしなるべけれど、中世八幡と称するより、今の祭神となれり、むかしは此邊りまで入海にて、さる神社のおはしましゝなり、此西なる新川を堀りし時、地仲よりはまぐりの穀の多く出し所ありて、今もそこを貝塚とよべり、志賀は水邊の里を呼べる例多し云々」。 明治神社誌料 |