名城公園東北。八王子中学西に鎮座する。 社名は「多奈波多ハ棚機にて神ノ號なり、うつりて地ノ名ともなれり」とあつて、神名から由来した社名であると思われる。 「尾張名所図会」「尾張志」に田幡村にあり、今七夕の森と称して、七月七日(旧暦)の例祭には、灯をかかげて諸人参拝すとある。昔ながらの祭礼風景が七夕祭りとして現在も続いている。 『渡会氏神名帳考証』は当社を穴太部神社(尾張国 葉栗郡鎮座)に比定している。 |
由緒 延喜式神名帳に山田之郡多奈波太乃神社、本国帳に正四位下棚機天神とあり、大正11年指定村社、昭和39年社殿造営、昭和56年7級社に昇格。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
多奈波太神社 主祭神 天之棚機姫命 合祀 祭神 天照大神 応神天皇・素盞鳴命・大山津見命 社殿の創建・由来 詳かではないが古書・古老の口碑では、江戸時代寛延年代前(西暦1752年頃)と推測される、名古屋城築城の際に換地させられ多奈波太の森と言って大変広い土地であった。特に尾張藩主第10代徳川斎朝卿の尊信も篤く、7月7日の祭礼にはこの森にて里人に獅子舞をなさしめ御垣亭より上覧され、お神酒等賜り又徳川家家臣が和歌・俳句・絵画等を色紙・短冊に書いて奉納し、灯明二基を献上された。 この社殿は太平洋戦火により、昭和20年5月14日名古屋城と共に灰儘に帰し、昭和39年に現在の木造銅板葺きの立派な社殿に復興再建された。 そして平成10年には修復工事が行なわれ、屋根の葺替え工事社殿の内部の改装等が行なわれ現在七級社として、氏子の信仰も篤く崇敬者も多い神社である。 社頭掲示板 |
多奈波太神社 平安時代に編纂された延喜式に「山田郡多奈波太神社」と記される格式の高い神社で、主祭神は、天之多奈波太姫命(天之棚機姫命)である。 「尾張名所図会」にも、「田幡村にあり、七夕の森といひて、例祭7月7日、燈をかかげて諸人参詣す」とある。昔からの祭礼風景が七タ祭りとして現在も続いている。 社殿は、昭和20年5月の空襲で焼失、昭和39年に現在の木造銅板葺きに復興再建された。 名古屋市教育委員会 社頭掲示板 |
多奈波太神社 創建は明かではないが、『延喜式神名帳』に山田郡、多奈波太神社『本国神名帳』には正四位下多奈波太天神とある。『尾張名所図会』『尾張志』にも同様に記るし、今七夕の森と称して7月7日の例祭には灯りをかかげて諸人参詣すとある。口碑に社地広大なりしが慶長十七年(1612)築城の際換地あり、徳川斎朝(源順公)この森にて里人の獅子舞を大幸川の向垣の亭より眺められ神酒を振る舞われた、家臣短冊、色紙を多数奉納したという。明治5年村社に列格し、大正11年25日、指定社となる。昭和39年社殿防火建に改める 愛知縣神社名鑑 |
多奈波太神社の朝顔カーテン アサガオは別名牽牛花《けんぎゅうか》と言われます。 昔々中国で、ある農夫が、アサガオの種を服用して病気が治ったので、自分の水牛を連れてアサガオの田んぽにお礼を言いに行ったことから、「牽牛花」と呼ばれるようになりました。 日本では祭良待代に伝わって以来、生薬や園芸植物としで楽しまれてきました。 江戸時代には、七夕の頃に咲くことも相まって、花が咲いたアサガオは「彦星(=牽牛星)」と「織姫星」が年に一度会えることを現わしているとして、縁起が良いモノとされた言い伝えがあります。 この朝顔カーテンの苗は6月5日に金城小学校トワイライトルームの子供たちによって植えられました。 社頭掲示板 |
多奈波太神社の「乳イチョウ」 イチョウは、柱状の瘤(乳垂)が出来る事があり霊力の宿る神木といわれます。 多奈波太神社の「乳イチョウ」は樹令が若いにも拘らず多くの瘤(乳垂)が垂れ下がっており珍しい存在です。 この乳イチョウの生命力にあやかり、健やかで豊かな母乳にめぐまれたという逸話も聞かれ参拝の皆様の健康と幸せに役立てば幸いです。 平成22年7月吉日 社頭掲示板 |
多奈波太神社 多奈波太は假字也○祭神明か也〇山田庄田幡村に在す、(集説)〇旧事紀、(神祇本紀)復令天棚機姫神織神衣、所謂和衣者、 神位 國内神名帳云、從三位桁旗天神、(一本作折幡) 神社覈録 |