はなみずきどおり駅東に鎮座する。 日本武尊の東征後、父景行天皇が戦跡を巡り当地を行幸の折、この地方の豪族岩作の石作大連が斎殿を造営して天皇を歓迎した。 承和4年(837)斎藤氏が天皇御事蹟の長湫根ノ神に創建し、その後大久手、枯乎良岐と移る。 岡の上の社。 |
由緒 1、祭神 大帯日子淤呂和氣命 1、例祭 10月15日 1、由緒 承和4年(837)斎藤氏が天皇御事蹟の長湫根ノ神に創建し、そのご大久手、枯乎良岐と移り長久手合戦後の慶長9年(1609)城主の支援を得て今の地に御遷座したと伝えられている。天正年間には徳川家康が戦勝を祈願葵紋太刀三振りを寄進し、伝統行事として氏子による警固祭、棒の手の奉納がある。明治5年村社に列格、戦後宗教法人となる。昭和20年代より改築改修を重ね社頭の面目を一新した。 1、境内地1300余坪。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
景行天皇社 祭神 大帶日古淤斯呂和気命(12代景行天皇) 例祭 10月15日 由緒 往古は明神祠と称し、承和4年(837)斉藤道智同五郎者が天皇御事蹟の長湫根ノ神の地に創建した。 その後大久手に移り、斉藤氏の子孫が永享9年・享□3年・弘治2年と修造を重ね、永禄9年(1566)城主加藤太郎右衛門が枯乎良岐に移して重修し、天正12年長久手の合戦には杜の前に堀久太郎が備立ったとして知られ合戦後の慶長9年(1609)2月現在の地に遷座したと伝えられている。 この間天正年間には徳川家康が戦勝を祈願して飾葵紋木太刀三振の寄進があり社宝として今に伝えている。 徳川時代は青山助大夫が代々社守をつとめ、維新後明治5年村社に列格。同40年神饌幣帛供進神社に指定。昭和21年宗教法人となる。 戦後の荒廃□□民心の安定と経済成長により、氏子崇敬者の理解とご支援をいただいて、改築修造を重ねて面目を一新し氏神様の御神徳いよいよいやちこなるを祈ります。 社頭石碑 |
景行天皇社 日本武尊の東征後、父景行天皇が戦跡を巡り当地を行幸の折、この地方の豪族岩作の石作大連が斎殿を造営して天皇を歓迎した。 五十四代仁明天皇の承和4年(837)その斎殿跡である根ノ神の地に天皇の御名を冠した景行天皇社の社殿を建立したことに始まる。 その後、大久手(地名)、こおろぎ(地名)に社殿を移し、慶長9年(1604)に現在地に遷座した。 往古は三社明神と称し、景行天皇社を中心に左に神明社、右に白山社を祀っていた。 由緒書き |