朝宮公園の南に鎮座する。 春日井市上条町の和爾良神社の旧社地とされている。 和爾清水という御手洗池の地名があることが根拠の一つである。 別当大光寺は神宮寺であった。名を「朝宮山大光寺」といい、この地より白山神社と共に春日井市上条町に遷したという。 朝宮町に鎮座していた和爾良神社が建保6年(1218年)上条城主の小坂光善により上条町に和爾良白山神社と改めて建立し、朝宮町の地には石川県白山市にある白山比盗_社から菊理姫命が勧請・合祀され、朝宮白山宮と称したとされる。 |
由緒 創建は不詳。延喜式神明帳(延喜5年、927年)の式内社和爾良神社とつたえられているがさだかではない。 建保6年(1218年)加賀白山より菊理比売命を合祀し朝宮白山宮と称した。 寛永19年(1642年)徳川源敬公により改造営され朝宮神社となった。 なお、文録4年(1595年)の「奉再建和爾良白山宮御本殿」の棟札がのこっている。 今回、区画整理にともない境内地の変更もあったので本殿拝殿とも鉄筋コンクリートつくりで再建し境内も整備して昭和63年(1988年)遷座祭をおこなう。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
朝宮神社 朝宮神社御由緒 氏神朝宮神社は延喜式内社でその起源は古代にさかのぼり得るが鎮座の年次は詳らかでない。 御祭神は 阿太賀田須命 建手和爾命 菊理姫命 の三柱の神を奉祀する。その内和爾命は当地と関係のある和爾族の祖神である。 又社伝によれば尾張藩祖徳川義直および二代目光友は当社の崇敬厚く義直は社殿拝殿の造営光友は亡母貞松院の祈願所とされた。なお神社の近くには源敬公の朝宮御殿跡の碑を存する。これは春日井原におけるお鷹狩の折りの休憩所の跡である。 このたび当地区画整理に伴い社殿の改造営成り、当社はその面目を一新するに至った、記してこれを不朽に伝える。 昭和63年11月吉祥日 安藤直太朗謹撰書 社頭石碑 |
朝宮神社 創建は不詳。延喜式神明帳(延喜5年、927年)の式内社和爾良神社と伝えられているが定かでない。建保6年(1218年)加賀白山より菊理比売命を合祀し朝宮白山宮と称した。寛永19年(1642年)徳川源敬公により改造営され朝宮神社となった。なお、文録4年(1595年)の「奉再建和爾良白山宮御本殿」の棟札がのこっている。今回、区画整理に伴ない境内地の変更もあったので本殿拝殿とも鉄筋コンクリート造りで再建し境内も整備して昭和63年(1988年)遷座祭を行なう。 「今から約一千年前に創建され信仰を集めていた和爾良(かにら)神社がこの地にあったが、文治の終わり(1189ころ)から建久(1190ころ)にかけて、この地の村落とともにさびれていった。建保6年(1218)上条城主となった男坂孫九郎光善が、同社を再興し、上条本郷の地へ遷座するとともに、その跡地に和爾良朝宮白山宮を建てたのがこの神社であるといわれている。 この地には和爾清水があり、新木津用水(1660ころ)掘割の工事でこれを掘り崩したので、この地に限り水費を除いたという古文書がある。また、御手洗の石の井戸枠に「和爾之井」と記されているのも、この神社の古い社歴を物語っている。 寛永19年(1642)に尾張藩主・徳川義直公により社殿等の改造がなされたという。義直公はしばしばこの地で鷹狩を催し、その休憩所をこの社地に設けられそれを朝宮御殿といっていた。その後も徳川家との関係があったようで、寛文3年(1663)にも同家による社殿改築の棟札が保存されている。また、当神社の社紋が徳川家と同じ三ツ葉葵紋を使用していることからも徳川家との関係がうかがわれる。祭神は、阿太賀田須命・建手和爾命・菊理比売命である。」春日井市郷土史研究会より 公式HP |