庄内川南岸近く。愛知工業高校南西に鎮座する。 この地は太古は海が近くまで迫つていた可能性がある。 里中平地のなかにあり。古来より稲作地と思われる。天武天皇のときこの地より稲を皇室に献じ、社殿を建立という。出雲族が祖神を祀ったものと思われる。境内には椎の古木(樹齢約800年)、大楠木2本や、シャシャンボ(南方系で北限といわる珍しい木)を始め多くの樹木が繁茂する。 |
由緒 鎮座地、名古屋市西区稲生町2丁目12番地、祭神、素盞鳴尊、大年神、伊奴姫神(いぬひめのかみ)稚産霊神(わくむすびのかみ)他、七柱を祀る、 天武天皇の御代白鳳2年(673年)この地でとれた稲を皇居に献上した際、社殿を創建したと伝えられている。昔は稲生村とよばれ、庄内川の流域で古くから稲作が盛んでありました。農業の守護神として崇敬された。 約千年前の法令書「延喜式」に尾張国山田郡、伊奴神社と記載され、当時の国幣社であって、「式内社」とも云われる神社である。又「尾張国内神明帳」には従三位伊奴天神と記載されている。御神徳により、農業を始めあらゆる産業の発展興隆、安産、子供成育の守護神として参詣者も多い。 境内には椎の古木(樹齢約800年)、大楠木2本や、シャシャンボ(南方系で北限といわれる珍しい木)を始め多くの樹木が繁茂し、森全体が「緑地保全地区」に指定されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
伊奴神社 「延喜式神名帳」に「山田郡伊奴神社」とあり、「尾張本国帳」には「従三位伊奴神社」とある。 素盞鳴尊、その子大年神と妃伊奴姫神を主神とする。 天武天皇の時、このあたりから稲を献じ、それに併せて神を祀つたのが創始と伝える。 また、稲生町の地名の起りともいわれている。 名古屋市教育委員会 社頭掲示板 |
伊奴神社 当神社は第40代天武天皇の御代(西暦673年)、この地で取れた稲を皇室に献上した際に建立されたものと伝えられております。 『延喜式』に「尾張国山田郡伊奴神社」と記載される式内社で、また「本国帳」(尾張国の神社名簿)には「従三位伊奴天神」と記載されており、1330年余りの歴史を持つこの地方でも有数の古社であります。 犬石像の由来 当神社には創建にまつわる次のような伝説があります。 昔、庄内川の氾濫に困った村人が旅の山伏にお願いしてお祈りをしてもらったところ、その年は洪水が起こらなかった。 不思議に思った村人が開けてはならないと言われていた御幣を開けたところ、中には一匹の犬の絵と「犬の王」という文字が書いてあった。 そして次の年はまた洪水となってしまった。 再び立ち寄った山伏に村人は御幣を勝手に開けてしまったことを詫び、もう一度お祈りをしてほしいと頼んだ。 すると山伏は「御幣を埋め社を建て祀れ」といい、その後洪水はなくなった。 それが伊奴神社の始まりと云われている。 御祭神の伊奴姫神は安産、子授けに御神徳があり、また犬は安産することから犬の石像が奉納されており、安産祈願に訪れる妊婦さんが犬石像を擦ってお祈りする姿がよくみうけられます。 公式HP |
伊奴神社 延喜式には「尾張国山田郡伊奴神社」と記載されている式内社で、40代天武天皇の御代(673年)、この稲生の地でとれた稲を皇室に献上した際に神様を祀り社殿を創建したものと伝えられる。 社頭掲示板 |
伊奴神社 伊奴は假字也○祭神群ならず〇山田庄稻生村に在す、(集説、府志)今三熊野十二所と称す、(府志) 考証に、豊宇氣姫命、集説に、伊勢國奄芸郡伊奈富神社、同神保食神、張州府志に、倉稻魂命と云り、共に村名に泥める説也、連胤、按るに、古事記、(神代段)大年神娶神活須毘神之女伊怒比売、生子大國御魂神、とある伊怒比売なるべし、熊野と称すは後世の附會なれば論に足りず、仰伊奴といふは、出雲國の地名ぞ原にてありける、と古事記傳にもいへるが如くなるらし、 類社 出雲國出雲郡伊努神社 神位 國内神名帳云、從三位伊奴天神、 神社覈録 |
郷社 伊奴神社 祭神 稚霊神 倉稻魂神 早玉男神 天照大神 保食神 伊弊冉神 事解男社 熊野神 張州府志に云く「三熊野十二所」と、創立年代詳ならず、但明細帳に、 「当社の勧請は、伝ふ天淳中原恵真人天皇御代、是地に百稻を取せたまふ由、其時当社を創立すと言、依て此社も伊奴神とも稲荷共書、該社地を稻荷山と云、」 と記せり、廷喜式内社にして、奉唱國帳に「從三位伊奴天神」、参考に「從三位伊奴神社、天神、一本作正四位下稻生村」と見え、永享2年11月の棟札を始め、丈明2年、萬治3年、延宝7年、元禄8年の棟札を残す、明治5年5月郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、祭文殿、社務所等を具備し、境内地811坪(官有地第一種)あり、 明治神社誌料 |