天神社
てんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】高牟神社 尾張国 春日部郡鎮座

   【現社名】天神社
   【住所】愛知県春日井市勝川町1−3−2
       北緯35度13分14秒,東経136度56分43秒
   【祭神】菅原道眞 (合祀)天照皇大御神 大山須美命 豐受皇大御神
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】
   【由緒】正和2年(1313)無尽禅師創建

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【参考HP】 天神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】八幡社・春日社・厳島社・祖霊社

明治3年「尾張国神名帳追継考」(水谷磐根編)、従三位高牟天神の項に「府誌勝川天神の条に…旧所在地名高山後移今地…高牟一書…」と有る。
天神社は1313年の鎌倉時代末期、無盡禅師により高山村(現在の春日井市高山町)という所に創建され、そのあとに勝川に移された。
当社を高牟神社に比定する説がある。


由緒

無尽禅師正和2年この社を創建せりと云う。 いつの頃からかこの村の氏神として崇敬されてきた。 尾張誌には、天神の社勝川にあり、正和2年に創立、以前は高山(春日市内)にあったのを後世この地に移し天文九年長曽根縫殿修復す。 尾張地名考に勝川の天満宮は、旧加賀守(陸奥國二本松の城主)の屋敷の鎮守と記されている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




天神社にまつわる歴史考

山田明長と承久の乱  沙石集 「薬師観音利益事」より
 「天神社」のいわれを語るには、先づ「地蔵寺」について知っておかなければならない。また、地蔵寺を語るには「山田庄」の「山田次郎重忠」にまでさかのぼって述べねばならない。
 中世(13世紀)の鎌倉時代、この勝川あたり一帯は 「山田庄」といわれ、小幡(今の名古屋市守山区)に領地をもつ豪族である山田氏が支配していた。代々敬神の念が厚くて、何代目かの当主「山田次郎重忠」 は、父重満の十七回忌に当って、菩提のために、「大永寺」(現守山区大永寺町)を建立したり、また、亡兄のためには、「長兄寺」後に(長慶寺と改めた)、父のためには「長父寺」を、母の為には「長母寺」を(共に名古屋市守山区)建てたほどの信心深い人であった。また、忠義の心のあつい人でもあって、承久三年(1221年)に起きた乱、即ち「承久の乱」には、いち早く一族を引つれて京都に馳せ参じ、官軍の一方の大将となって後鳥羽上皇に味方して、朝敵の北条義時の大軍と随所に戦ったが敗れ、ついに京都「さが」の奥の小川のほとりで、弟「伊予坊」と共に自害して果てたのが忠臣であった。特に「美濃国杭頼川(岐阜県粕川の支流、不破、安八の二郡の間を流れ、牧田川に入る)の戦いでは実弟「右馬允明長」は瀕死の重傷を受けた。
 この「右馬允明長」こそ、地蔵寺の創建者であって姪の「道證」後に「無盡禅師」といわれる高徳の方を「長母寺」から招いて開山とした。(春日井市史は道證は明長の子としている)この長母寺には、当時「無住」が住んでいて、有名な「沙石集」を編纂されていたが、高弟「道證」も執筆の助力をしていた。その全十巻中第八巻末に「乾元第二暦発卯季春之候此道證上人奉渡畢 道慧」とあることからも明瞭である。
 無住国師の「沙石集」はもともと万人に分り易く説いた、いわゆる説話集であって、歴史書でも、文学書でもない独特の説話書であるために、多少の誇張も当然必要であろう。その辺のことは充分承知していながら掲出の、「薬師観音利益事」を読むと、別人ならばいざ知らず、守山「長母寺」在住の「無住国師」や助手をされた「道證」師が、自分の足元「龍泉寺」下の裏玄関口「下津尾の渡し」をご存じないはずはない。百も千も承知の上で、舞台をわざわざ、尾張国府の所在地にしたのは、ここが広く世間に知られていた地であるから、説話の演出効果百パーセントと計算した国師等のにくらしいまでのたくみな歪曲と考えられる。ちなみに「国府稲沢」に「下津」の地名のある事も、舞台設定の一因があるように思われる。
 「青墓」にたどりついた「明長」は二人の家来に見とられたり、又 「横蔵寺」の僧に助けられ、奇跡的に命拾いをし、故郷山田荘へ向ったが、何しろ敗軍の将たる身、昼は木の下かげや叢の中に身を潜め、夜になるのをまって、土地感のある美濃尾張の国境を、東へ南へとたどっていった。かつて参詣した西国三十三ケ所終焉の、谷汲山華厳寺の北麓を抜けると目の前の流は、根尾の川、もう本巣郡。右手はるかな平地をうねうねと伸びるは東海道筋で、往来の人影が点々と豆粒のように見える。左手に山が開けて、田植のすんだ緑田が絵に画いたように朝の陽に輝いている。摩免戸の渡しが足下に眺められる。ここを渡ればもう目ざす尾張の国だ。夢に見た尾張山田荘だ。こう思うと急に力が抜けて切株に腰を下したまましばらく眼を閉じた。青墓以来の苦渋の毎日がしのばれて、大粒の涙がとめどなく頬をつたった。夜陰にまぎれて摩免戸の渡しを越えた「明長」は「栗栖」の西端から「入鹿池」、さらに進んで「尾張富士」といわれる「本宮山」まで一直線に南下した。
 ここまでは「杣(そま)道」つづきで人通りもまれで、行あう人もなく、あたりを警戒する必要もなかったが、次第に故郷が近づくにつれ、鳥の声や風の音にも一喜一憂せねばならなかった。というのは「鎌倉方」の荒武者による厳しい落人狩に村全体が戦々競々としている様が目に浮かんでくるからであった。
 夜陰にまぎれて、摩免戸の渡しを越えて、「栗栖」の村はづれから入鹿池畔についたころら、故郷での探さくの噂が耳に入ってくる。尾張富士の本宮山を西に見て小牧原から、田楽原へと足を伸ばすにつれて、次第に「残党狩」の噂は高く、全身耳になった明長にとっては、居ても立ってもおられなかった。かねてから、このようなこともあるだろうと覚悟していた明長は、このまま、真っ直ぐ目的の地へもどる心を押さえて、しばらく適当な隠れ場所を見つけて事態を静観しょうと決めていた。
 折も折、時も時、動物的本能か、それとも男の闘争本能か。「ここだ。ここにしばらく隠れていよう」と足を停めた。それが「高山」(現 春日井市高山町)の台地だ。松や杉の大木が生い茂り、風雨もしのぎやすく、かたわらに八田川のせせらぎが流れ、龍泉寺も眼下に見下すことができる。幾日かここに身をひそめた因縁が「古文献」張州府志及び尾張志にいう「勝川天神社旧所在地高山に在り」との口伝えのもとになっていると考えられる。恐らく神社とは名ばかりで、「明長」が脱ぎ捨てた鎧など武具一式などであろう。
 人煙も稀な所と思っていたが、日がたつにつれて、どこからともなく、土民も一人二人とやってきて、身の回りの世話をしてくれたり、食べものの差入れをしてくれるようになった。この目の前のひとが、かっての忠臣「山田次郎重忠」の弟で、今うわさの手配中の人と知ってか知らずか、好意をもって受け入れてくれたように思われた。というのは、後年(四十七年後)明長のきも入りの地蔵寺が建立された時、遠いこの高山の村から壇徒となった幾人かの信者が足を運んで協力され、(平成)の今日に至るまで(約七百三十年)も宿縁のつづいていることから考えてもいえるのではないだろうか。
 さて、しばらく世の中の動静を探っていた明長は、時はよしとみて、七月の太陽が照りつけている真昼間を「下津尾の渡し場」に姿をあらわした。(国府稲沢の下津はオリヅ。ここは同じ字でもシモツと読む)名古屋へ出て東海道と合流する裏玄関口)ここは庄内川(当時は庄無川)ともいった、広い川で対岸には「タタラが池」が、中州に生い茂った葦の葉越しに眺められる。
 沙石集は、ここで鎌倉武士に怪しまれて縄をかけられたとされている。そして、たまたま居あわせた熱田講の人や、神官らが、「この人は決して怪しい者ではありません。私どもがあづかりましょう」と申し出たがそれも一蹴、そのやりとりのすきをぬって明長は、渾身の力をふりしぼって縄を振り切り、川の深みに突進した。自殺を覚悟した明長の後を追って来た若い僧が、後手の縄を引張って「死んではいけません、死んではなりません」とカ一ばい引き留め、鎌倉の武士に引渡した。
 やがて龍泉寺の塔をふり返りながら、鎌倉めざして護送されることになった。このさわぎをききつけた故郷の人々が、川の左岸に群がって手を振る中に、かつて青墓の山奥でかいほうをしてくれた二人の友人の姿もあった。
 いよいよ舞台は、鎌倉である。
 明長を伴なったかの武士二人、やっと執権義時に見参を許されたが、「早く早く首をはねよ」とだけ言い残してさっさと奥へ姿を消した。やがて問注所の裏門から、処刑場の「由比ケ浜」をめざして、人通りの多い目抜き通りを進んでいった。うつむきかげんに額の汗をぬぐいもしないで、とぼとぼ役人衆についていくと、幻に例の龍泉寺の若僧があらわれて「なげきなさいますな、死んではなりません」と、しきりに言葉をかけてくれるが、今は最後だとして一心に念仏を唱へつづけていた。一行が鎌倉十橋中の乱橋のたもとまで来た時、騎馬の武士が道のまん中まで出て来て、いぶかしげにこちらの一行を見ているのに気付いた。明長は何事ならんと歩みをとめてみると、りっばな武士が馬より降りて「これはこれは一体どうしたとか」といいながら近づいてくるではないか。彼こそ誰あろう、今は敵味方に分れて戦ったものの、かつての親友で幕府直属の鎌倉方の一方の大将と知って、みにくい姿で申しわけないがと、一部始終を語り終って改めて「実は杭頼川にて死ぬべき身を、このようにあさましい姿となって、ただ今こそ首をはねられんとて浜へ向う途中で候、それにしても最期の見参こそ嬉しい 乞食すがたのみすぼらしい明長の前に、首うなだれてかしこまっていた華麗な武士との組あわせが異様にうつったのか往来の人々が足を停めて次第に人垣の輪が大きくふくらんでいった。急に立上がった彼の武者は、おもむろに馬の手綱を引寄せて、ひらりと馬上にまたがり、誰ということなしに、「この者とは年来の知己にて候、是より直ちに相模殿(執権義時)にお願いして預り受くべし、しばし待給へ」と言うやいなや、馬腹をけって葛西が谷方面へ向って一目散。
 明長を伴った一行は、はてどうしたものかととまどいを感じながら、何やらごたごたと言い争っているようにみえた。明長は腰の竹筒の栓をぬいてぐっと一口水をふくんだ。これは末期の水と言って役人からもらった水であったが、何だか目先が明るくなって五色の雲が目前に追ってくるように感じられたので、残りの水も捨てた。力も湧いてきた。人垣の群衆が急にどよめいて、さっきの騎馬武者、満面あれるばかりの笑顔で「許されました。これこの通り預くべし」との御文をたまわりたり」というや否や馬から降りて明長のそばに駈けよって「さっ」と捕縄を切り捨て「預かるべし」と言い放って、馬に乗せて走り去る。
 許されて故里へ帰った明長は87才の長寿を全うしたが、第一に着手した仕事は、地蔵寺の建立であった。父重満にならって勝川の地を先祖の菩提寺長母寺の弟寺として、りっぱな堂宇を完成し、姪の道證を開山として一族はじめとして郎党等の諸霊をとむらわせた。
 『又境内の一隅に古代の先例にならって天神地祇を祭り天神は(バショウ様)といわれ今もなお、地蔵寺の守り神となってお祭りが続けられている。この守り神「バショウ様」には、かつて「明長」がしばし隠れひそんでいた「高山」からの遺物(刀、剣などの武具類)も移されたことであろう。「尾張地名考」にあるように「後世高山より移された」といわれるいわれのものではないだろうか』神仏混合の時代、地蔵寺住職が自分の寺の鎮守神の世話をしていたのはけだし当然のことである。興亡およそ四百年、世はまさに戦国時代を迎えた。丹羽郡の豪族丹羽氏が、南進して此の地に居を構え、信長、秀吉の片腕として勢力をふるった時代、この「バショウ様」を屋敷神としてまつったとされる。
 いつの間にか村人が一人二人とお参りする者が集まるようになって「村の鎮守」と発展したと故実は語っている。人々の心のつながりが「村」の発生であり、形にあらわれたのが「勝川天神社」の誕生ではないだろうか。古くは室町時代には近隣に例の少ない「惣」の結成をそして、徳川時代の元禄六年「野墓」造成した先人の足跡に敬慕の念を禁じ得ない。
   平成4年(1992年)11月10日        大 脇 二 三 記
                              註 一部の語句を替えてあります。

参考HP




由緒 沿革

当神社は正和2年(西暦1313年)無尽禅師によって創建されたと伝えられている、もとは嵩山という処にあったが後世今の地に移し、神払混淆の時代には地蔵寺の僧が祭祀を掌ったという。尾張地名考に陸奥国二本松城主丹羽加賀守の屋敷の鎮守であつたとも伝承されている。明治40年10月村社に指定され同42年勝川地内にあった神明社、洲原神社、山神社、神明社四社を合祀し古くから勝川村の氏神とし人々の厚う信仰を得ている神社である。終戦と同時に神社は国家管理を離れ宗教法人「天神社」として今日に及んでいる。

社頭石碑



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