落合公園の北に鎮座する。 この地には篠岡古窯群(五世紀後半の古窯)がみられ、古くから人々が活躍をしたと考えられる。中世になり、篠岡古窯群が衰退するとともにさびれたと考えられる。鎌倉以後、稻荷信仰とともに、江戸期に発展した。 なぜ稻荷神を祭るようになつたか不明であるが、社家井村氏の初代稲生六郎が社職になつた建久5年(1194)という社伝を持つ。 |
由緒 当社は元明天皇の御代の和銅4年(711)の創建とつたえている。 社地のあたりは古来地名を高牟(たかむ)とよび、社名も古く高牟神社と号し、延喜式第九(神名式)所載の春日部郡高牟神社に比定される。 中世に稲荷信仰が普及して合祀されるにいたったため、江戸時代の棟札には高牟稲荷大明神と記したものが少なくない上、京都の神祇官の神道裁許状にもそう記されている。 しかし高牟神社は金工の祭神、高御産霊神は天地創造の神、稲荷大明神は農業神として両社は別個の神格として崇敬されてきた。 時移り明治4年10月、犬山県は当社を尾張国神明帳所載の松原神社と認定し、翌5年5月愛知県は近傍18ヶ村の郷社に確定したので、松原神社と名を改めて現在にいたっている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
旧蹟 松原座 江戸時代ここ松原神社地内西側に間口八間・奥行四間・舞台面積三間半平方・廻り舞台直径二間という大規模な歌舞伎の芝居小屋が建立され松原座と称した。 農村の娯楽機関としては尾張地方に類例を見ない画期的な建物であった。 春秋二回一流の歌舞伎一座を招いて興行したと伝えられ、どのような出し物でも上演できる大道具小道具が完備されていた。 松原座の運営は村年行事が中心となって、企画立案し笹連(青年会)の協力奉仕により公演され近隣八ヶ村はもとより遠くは美濃三河方面より見物客が訪れ盛況を極めた働くばかりでなく、楽しむ事を知っていた先人の心の豊かさに注目したい。 昭和12年秋、御遷宮記念公園を最後に次第に老朽化が進み昭和23年に取り壊した。 昭和58年10月 伊藤守雄書 社頭掲示板 |
郷社 松原神社 祭神 高御産毘神 稚牟須比命 大宮比売命 倉稻魂命 埴山比売命 猿田比古命 旧と稲荷神社と称す、創立年代詳ならすといへども、社記に「天明4辰年再輿」と記せり、明治4年4月国帳の松原の社なる故を以て社号を改め、同5年5月郷社に列せらる。 社殿は本殿、祭文殿、拝殿、社務所等を具備し、境内地3281坪(官有地第一種)あり、因みに国帳の松原神社に対して、尾張志は「其所々うせて知る人なし」といへり、 明治神社誌料 |