鷹来小学校の北に接して鎮座する。 景行天皇42年創祀の社伝をもち、味岡庄十七ケ村の総産土神とされていた。 「板鳩」と称され、石清水八幡宮の神使としての鳩の連想から戦国時代から近世初頭にかけてこの地方の八幡信仰の中心をなし、武士の尊崇をあつめ、源頼朝の寄進の社伝、織田信長の寄進などがみられた。 神宮寺として、常念寺があつたが、現在は廃寺となつている。 古式にのっとって行われてきた伊多波刀神社の流鏑馬は、市の無形民俗文化財に指定されている。 |
由緒 この地は古代より中世にかけて、味岡の庄と呼ばれ、その総産土神として、近榔十七ケ村の崇敬を集めていりました。 本殿に七柱の神様をお祀りしています。その中の高皇産霊命は天孫瓊々杵命の母方の祖父に当る方で、景行天皇42年(西暦112年)8月15日の創建と伝承され、延喜神明帳に記載されている神様である。品陀別命、息長足姫命、玉依姫命の三柱の神様は武家の崇敬篤い八幡三神と云われ、(古代末から中世にかけて勧請されています。そして社格もいつしか八幡宮と呼ばれるようになりました。明治になって伊多波刀の社名に復したことは数ある棟札からも明白であります。 大山祇命、 伊豆能売命、市杵島姫命の三柱の神様は、明治43年11月1日に田楽権現と郷中に祀らいおられたのを御遷座し奉つて合祀された神様です。 そして、大正6年12月30日に岩野町の八幡社祭神、品陀別命を御遷座し奉って合祀されました。 社頭掲示板 |
伊多波刀神社奉納流鏑馬 伊多波刀神社奉納流鏑馬(市指定) 流鏑馬の起源は、記録がないのではっきりしない。しかし、神社が古来味岡荘十七か村の総鎮守で、戦国時代から近世初めにかけて、八幡信仰の中心になっていたことから、在地の豪族が戦勝の願をかけ、成就の御礼として奉納したことが、はじめと考えられる。 さて、流鏑馬は甲冑をつけた五騎の武者が、弓を手に馬場を「直線に駈ける。一尺(33cm余)四方の薄板の的を竹にはさんで差出すと、馬上からこれを射る。一矢一矢当たる毎に見物人が大声をあげ手をたたく。終ると人々はどっと押しよせ、的を奪い合う。これを拾うと福をさずかるという。 明治時代に入ると急速におとるえ昭和10年頃廃止になつてしまつた。 現在は市の無形民俗又化財に指定されているが、秋祭に甲冑をつけた人が二人で馬に乗って歩くだげである。 春日井市教育委員会 社頭掲示板 |
伊多波刀神社奉納流鏑馬(市指定) 伊多波刀神社は付近十七力村の総鎮守として信仰を集めた神社で、秋の例祭には古式にのっとった流鏑馬神事が行われていました。その記録は江戸時代の「尾張名所図会」にも記載されており、幟、太刀、槍を持った人々を始め、神主や神輿を担ぐ人々が神事を行い、その後、流鏑馬を行ったとされています。 流鏑馬とは、馬を走らせながら矢で的を射る射技のことです。伊多波刀神社では、現在は馬を走らせて矢を射ることはしなくなりましたが、地域に伝わる伝統文化を後世に継承するため、保存会による騎馬武者二騎と流鏑馬装束の十数名が秋の例祭の行列に参加しています。また、境内の矢場において、甲冑姿の武者が静止した馬上から鏑矢を騎射し、その後歩射を行っています。 春日井市教育委員会 社頭掲示板 |
伊多波刀神社 伊多波刀は假字也○祭神応神天皇、(府志)○昧岡庄多樂村に在す、今八幡と称す、(集説、府志) 集説云、俗曰、古板面書鳩献神霊、故為號、連胤按るに、今八幡と称し、鳩を献ると云古實ありげに聞えたり、 神位 国内神名帳云、從三位伊多波刀天神、(一本作板鳩) 神社覈録 |
郷社 伊多波刀神社 祭神 高皇産霊神 息長足姫命 品陀別尊 玉依姫命 創祀年月詳ならす、醍醐天皇延喜の制小社に定まる(延喜式)、味岡庄十七ヶ村の総産土神にして、五町八段の神領ありしを、慶長年間検地の際官没せらる、其十七ヶ村よりは年々例祭に献馬ありしといふ、明治5年5月郷社に列す、一面の桧原にしていと神さびたり、俗に曰ふ、古板面に鳩を書きて神霊に献る故に伊多波刀神社と號すと(名所図会)。 社殿は本殿、拝殿、神樂殿、神輿殿、渡殿等を具備し、墳内地3772坪(官有地第一種)あり、 明治神社誌料 |