この地域はおよそ1500年前頃から物部氏一族により開拓されたので、物部氏の氏神である大和の石上神宮から分神を勧請し、斎き祀ったことに始まるという。 宮司、山県正英氏は、「古い伝承に拠りますと、神輿渡御が行われていたと言う。それは、祭礼の前日に、神輿は、この八所神社から出て、当社より東南500m程の所に富士社がありますが、この社へ渡御し一泊します。富士社はお旅所となります。お旅所となる富士社は、青塚と呼ばれる円墳の墳上に鎮座する社でもあります。加えてこの青塚古墳は、物部氏のお墓と聞いております。」と述べられたという。 当社を物部神社に比定する説、高牟神社(春日部郡)に比定する説がある。 |
八所神社( 祭神 宇麻志麻治命 祭儀 例祭 10月10日 厄除神事 旧暦2月1日 輪くぐり祭 旧暦6月30日夜 由緒 古書 延喜神名式(約千年前)に尾張春日部郡(豊場郷)に物部神社ありと記されている。 この地域は凡そ千五百年前頃から物部氏一族に依り開拓されたので物部氏の氏神 大和の布留の里にある石上神宮より分神を勧請しここに斎き祀った。 社名は物部神社(八所太明神)と呼ばれていたが明治初年八所神社と定まった。 沿革 祠宮 松浦家古文書に十八代孫助元徳の時織田信長より社領として田地八町歩の寄進を受ける。 十九代惣七郎守範の時 豊臣秀吉同地を没収する。 二十代孫右衛門勝信の頃 徳川忠吉が信長の朱印入り神領文を見て改めて二十石を付ける。 二十五代勝大夫守安の時 尾張三代藩主徳川綱誠の側室梅津の方 この宮に男児出生を祈願 心願成就の参詣に太刀一振と葵紋章大挑燈一対を奉献とあり 現在当社の社宝となっている。 社頭石碑 |