味鋺神社
あじまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】味鋺神社 尾張国 春日部郡鎮座

   【現社名】味鋺神社
   【住所】名古屋市北区楠味鋺2-732
       北緯35度13分7秒,東経136度55分40秒
   【祭神】宇麻志麻治命 天照大神
       (配祀)天児屋根命 日本武尊 武甕槌命 別雷命 誉田別命

       祭神について異説はみられない

   
   【社格】旧郷社
   【由緒】寛治7年(1093)競馬の神事を執行
       応仁の兵火で焼亡
       平成10年10月流鏑馬が復活

   【関係氏族】物部氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「六所明神」と称していた
   【社殿】本殿三間社流造
       渡殿・祭文殿・拝殿・神饌所・御輿殿・社務所

   【境内社】神明社、洲原社、金琵羅社、天神社、秋葉社、熱田社、津島社
   【別当】隣接する護国院 天平年間(729年〜748年)行基によって薬師寺として建立

庄内川北岸、護国院東隣に鎮座する。
護国院は天平年間(729〜749)行基の創建で薬師寺と呼ばれ、天永2年(1111)再興。味鋺神社はこの鎮守であったとされる。
神武天皇開国の上古宇麻志摩治命、物部を率いて尾張国を征伐し、この里に居座した、その故に御名を村名の起こりとする。
この近辺は味鋺の百塚と呼ばれた程、墳墓が多くあった。


由緒

当社は延喜式神名帳に記載されている古社である。宇麻志麻治命は物部氏の始祖であり、その子孫が美濃、尾張、三河を平定しこの地に祖先を祀ったと伝えられている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



味鋺神社

平安時代の宮中の年中行事や制度などを記した「延喜式」に載る「春(日)部味鋺神社」にあたるとされる格式の高い神社である。
江戸時代後期に編纂された、「尾張名所図会」には、神社の図と共に流鏑馬などを行っていた祭の賑わいが詳しく記されている。平安時代から始まったと伝えられる流鏑馬神事は第二次世界大戦で途絶えたが、神輿渡御は今も祭の折に行われている。
宇麻志麻治命のほか六神を祀ることから六所明神とも呼ばれた。
名古屋市教育委員会

社頭掲示板




味鋺神社

創立年月日は不詳なれど、第六十代醍醐天皇御代(901〜930)にまとめられた延喜式神名帳に、尾張の国春日部郡、味鋺神社と記載されている古社である。物部氏の祖となる宇麻志麻治命は、我が子、味饒田命と供に、物部一族を率いて皇城の守護にあたり大政に参与する。
その子孫が、美濃・尾張・三河地方に発展し、ことに尾張地方地方の勢力は大きく、一族の遺跡と称されるものも少なくない。
春日井市味美にある二子山古墳、古来この山上に、物部天神があり可美真手命を祀っていた。
現在は山上に白山神社が物部天神を合祀して建てられている。白山神社は、現楠味鋺五丁目にあった天神藪古墳より遷座されたと伝えられている。
この天神藪古墳より、刀剣・鉾・武器類が出土している。(現在京都博物館に保管)
この一帯は味鋺の原で、俗に百塚といわれた程多くの古墳があった。このことから物部氏族の蟠踞していた遺跡であると考えられる。
物部氏族が祖先を祀り、平和と繁栄を祈った、物部天神・味鋺神社は、おそらく尾張に於ける物部氏最初の氏神であったであろう。
味鋺の流鏑馬は寛治7年(1093)京都で競馬の神事が催されたのが始めである。神前より南堤防までの馬場を数回、馬に乗って、矢を天に向けて射る。此の矢を拾えば夏病をしないと、見物の人々が競って矢を拾う勇壮な神事であった。
最初は、豊作の年に限り行われていたが、非常に経費がかかるので、大豊作でないと行われなくなり第二次世界大戦が始まると、中止の状態となり今日に至る。
現在の社殿は平成4年に改築され現在に至る。

社頭掲示板



味鋺の流鏑馬

五穀豊穣に感謝して、豊作の年に限り行われた神事である。
神前より南の堤防まで馬で走り一人三本の矢を東の空に向って射ることを数回繰り返した。
「この矢を拾えば、疫病をしない。(家族が健康で過ごせる)」と。
見物の人々が競って、矢を拾う勇壮な神事であった。
しかし、昭和13年を界として中止の状態となり、今日に至っている。
味鋺の流鏑馬が初めて行われた年代は、さだかではないが、尾張藩士画家高力猿猴庵作の、尾張年中行事絵抄(1800年前後)には、流鏑馬神事の様子が描かれている。
五穀とは、米・麦・粟・きび・豆類

社頭掲示板



味鋺神社夫婦椿

「こぼれ話し」
ある日の昼下がり、急に空が暗くなり雷が鳴り出し大雨となりました。その時お宮の横の路地を通りかかった若い女性が、雨宿りをしに神社の社務所へ。その前には一本の椿の木、横なぐりの雨も椿の木で濡れずにすみました。いつの間にか若い男性も雨宿り長雨につい話しかけられ一時間半もすぎ雨は止みました。いつしか二人は結ばれました。
「孫にも恵まれ、今二人は幸せな日々をすごしております。これは私の娘なのてす」とにこやかに老婆が語ってくれました。
そして毎年、椿は美しい花を咲かせていてくれます。椿は何年も過ぎ、根元には夫婦愛の証も見せています。
”恋愛成就縁結び”
味鋺神社

社頭掲示板



清正橋

この橋は、味鋺神社より南西約100mの溝に架けてあった石橋を、土地改良事業のため、昭和53年(1978)4月に移築されたものである。
名古屋城築城の折りに加藤清正の命により架けたと伝えられているので「清正橋」とよばれているが、地元の人々は「石橋」とよんでいた。
往時、稲置街道は、この橋を渡り庄内川の堤防に出て味鋺の渡しを経て成願寺村〜名古屋へと通じていた。
稲置街道(犬山街道・小牧街道)とは東大手門〜清水の坂〜杉村〜東志賀〜安井〜矢田川の渡し〜成願寺〜味鋺の渡し〜味鋺清正橋を渡り護国院の西北を通り小牧〜犬山〜中山道へ。
稲置と名古屋とを結ぶ重要な街道、尾張藩が開いた藩道で、参勤交代の際利用し中山道を経て江戸へ至った。

社頭掲示板



味鋺神社

味鋺は安智麻里と読り、(古点にミマリとあるは誤也)〇祭神味間見命歟○山田庄味鏡村(府志云、鋺今俗作鏡者非也、されど集説に、味鏡と書てアチマと唱ふると云り、)に在す、今六所明神と称す、〇旧事紀、(天孫本紀)字摩志麻治命、亦云味間見命
集説云、按、物部氏祖味間見命也、と云るは然るべし、張州府志に、祀大日霊尊、日本武尊、建角身命、天児屋命、武甕槌命、誉田天皇、と云るは例の信がたし、」伴信友云、宇摩志麻治命に対へて思ふに、味鋺も宇麻志麻里ならむか、されど村名の今の唱には叶はずと、連胤按るに、さることながら、是等こそ後世訛れるに違ふまじけれ、
神位
国内神名帳云、從三位味鋺天神、

神社覈録



郷社 味鋺神社

祭神 宇麻志麻治命 日本武命
   別雷神 天児屋根命
   武甕槌命
旧と六所明神とも称す、応仁の兵焚に社伝を失ひ創立年代詳ならす、但口碑に云く、神武天皇の御代宇麻志麻治命、物部を率いて尾張國を平定して此里に居住し給ふ、是より御名に依りて味鋺といひしと、又云ふ、御子味饒田命を葬り奉りし陵墓を二子山といひ、從属の諸墓一千八十余所あり云々と、延喜式内社にして、奉唱國帳に「從三位味鏡天神」と見え、参考に「從三位味鋺神社、天神、一本作正四位下、作味鏡非也、味鋺村六所社是也、と見えたるが、後ち累進して從一位に至らせ給へるにや、社伝從一位と奉称す、明治5年郷社に列せらる。
社殿は本殿、祭文殿、拝殿、社務所等を具備し、境内地409坪(官有地第一種)あり、因みに当社一名六所の號は古く文明年間の天永寺縁起に見えたるが、塩尻「凡諸社神形の数をもつて幾所といふ事ことに多し、当所の社人に聞侍れば、神形は六躯ありといふ、されば社號をわすれ只六所の明神とのみ称する歟」、といひ、又祭神につきて張州府志は「紀大日霊尊、日本武尊、建角身命、天児屋命、武甕槌命、誉田天皇、」といへり、

明治神社誌料



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