師勝小学校の南に鎮座する。 国原は「平らに広がった国土、原はひろい場所をいう」とあり、よく開拓された広い農村地帯を指すものと思われ、鎮座地の状況が社名に用いられたものであろう。 近世は栗原天神又は天神白山の祠と呼ばれていて、訓原神社とされたのは、明治時代に入つてからである。 祭神少名彦名命は古くから祀られていたと思われる。 |
訓原神社 訓原は久爾波良と訓べし○祭神詳ならず○山田庄井関村に在す、今栗原天神と称す、(集説) 集説云、按、旧事紀曰、尾治佐迷連之子尾治粟原連、云々、久爾與久利音通と云り、猶考ふべし、 類社 丹後國竹野郡久爾原神社 神位 国内神名帳云、從三位訓原天神、 神社覈録 |
郷社 訓原神社 祭神 少彦名命 旧と栗原天神とも称す、創立年代詳ならすといへども、延喜式内社にして、奉唱國帳に「從三位訓原天神」、参考に「一本作正四位下」、集説に「山田庄弁円村、(称栗原天神)」と見えたり、明治5年村社に列せられしが、12年12月郷社に昇格す。 社殿は本殿、拝殿を具へ、境内地433坪(官有地第一種)あり、因みに尾張志に云く、本國帳集説府志ともに、井瀬木村の栗原天神社を是とし、旧事記に記せる尾治佐迷連之子尾治原連を祭れるより上り、くにばらこときりはらとは唱へ近し云々、又参考本国帳には、訓原神社は外原村白山社是歟としるしたれども、是又おぼつかなき考へなり。 明治神社誌料 |