小川の東岸に鎮座する。 往古は当村は宇多須村と称し、字片山に鎮座し大社であったが、天正年間小牧の役、豊臣秀吉の兵火に羅り焼失という。 御嶽開山覚明霊神の誕生の地。 片山神社(尾張国 春日部郡鎮座)に比定する説がある。 和爾良神社(尾張国 山田郡鎮座)に比定する説がある。 |
天神社 木曽御嶽開山大先達覚明行者は、今より263年前享保3年尾張国春日井郡牛山村皿屋敷往農丹羽清兵衛妻千代の子として此地に誕生した。幼名源助通称仁右街門5覚明は修験道の法号である。 幼時故あつて生家を離れ、同郡土器野新田貧農の家に養われたが、やがて枇杷島村清者寺の従弟となり、道生と号した。 後医師井上竜正の箱持となる。児玉村より凄お侮を娶り、中河原阿弥陀堂前に往み、米屋伊助方に雇われ妻と餅粥を商っていた。時に赤貧洗うが如く生活苦にあえいだ。 一夜彼は決然として妻を離別し単身四国八十八箇所七回巡拝の途に就いた。 満願の日土佐国蹉陀山中夢想に、覚明の二字を綬かり、汝木曽御嶽を開山せよの神託を蒙り、先ず美濃国恵那山を開き、ついで天明初年御嶽山麓黒澤村に到り庄屋田中新左衛門にその旨を懇請したが許さず却って被を福島番所に拘禁するに至る。 やがて出所万難を排し村民の協力を得逐に天明7年6月23日登頂二之池畔において立往生を遂げた。 嗚呼覚明行者、資性温良信心堅固、自然を尊び人間を愛し未踏の霊峯を大衆の手に解放した。 没後行者の遣徳を偲んで霊神の尊号を贈った。因に丹羽家菩提寺麟慶寺。 昭和55年5月 安藤直太朗謹撰併書 社頭掲示板 |