鎮座・創祀に関する由緒は不詳。 『式内社調査報告』も記載内容があまりにも少なく、その他の資料もなく不詳である。 |
銅鐸出土 弥生時代には、豊作を祈り、収穫に感謝する祭りが大きな意味を持っていました。銅鐸はその祭りに使われたといわれる青銅器です。当時の社会の政治的なシンボルの一つであったとも考えられています。 本来はつり下げて鳴らして使う祭器ですが、後には大型化、装飾化していき、置いてみる祭器へと変遷しました。このため、つり手の部分である鈕(ちゅう)の形から年代順に数段階の変遷が考えられています。 この銅鐸は、大正4年に市内北外山、外山神社のすぐとなりの畑から偶然発見されました。「外山の銅鐸」として古くから知られてきました。 大きさは高さ36cm、底部の長径18cmと比較的小型で、底部が少し欠けています。かなり使用されたようで、全体に摩耗していますが、よく見ると袈裟襷文(けさだすきもん)という縦横に交差する帯を用いて身の部分を区画している文様が見られます。銅鐸としては本来のつり下げて鳴らす機能を持つ古い形態で、愛知から出土した銅鐸の中では、鈕の形をから最古の段階のものといわれています。 市内から出土した銅鐸は、この1点だけで、昭和53年に市指定有形文化財に指定されました。なお、外山神社境内には銅鐸出土地の碑が建っています。 http://www.city.komaki.aichi.jp/kanko/komakiyama/komakiyama2.html |
銅鐸(北外山出土) 小牧市指定有形文化財 昭和53年3月25日指定 外山神社の境内から大正4年(1915)に出土した弥生時代後期の青銅製の銅鐸である。 高さ35.9cm、底部の直径18.2cmと比較的小型で、愛知県内出土の銅鐸としては最古の部類に属し、同じ外禄付紐式銅鐸はこれ以外に八王子(一官市大和町)と千両(豊川市)で出土した二例が確認されているのみである。 鐸身には、袈裟襷文という縦横に交差する帯を用いた文様が見られる。銅鐸としては、本来の吊り下げて打ち鳴らす機能を持つ古い形態のものとされるが、何に使われたものかは不明で謎の祭器といわれている。 なお、銅鐸は平成19年12月に外山神社から小牧市に寄附され、現在、小牧市歴史館で保管、展示されている。 平成20年12月 小牧市教育委員会 社頭掲示板 |
外山神社 外山は登夜萬と訓べし〇祭神詳ならず〇熊庄北外山村に在す、今六所明神と称す、(集説、府志) 張州府志云、祀國常立尊、国狭槌尊、豊斟淳尊、按、往昔有神祠六区歟、今所在三区、と云り信がたし、故に今從はず、 神位 國内神名帳云、從三位外山天神、 神社覈録 |
郷社 外山神社 祭神 天照大神 旧と六所明神とも称す、創立年代詳ならすといへども、当社は延喜式内社にして、奉唱国帳に「従三位外山天神」参考に「従三位外山神社。天神、一本作正四位下、北外山村六所明神是也」と見えたり、明治5年5月郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿を具へ、境内地726坪(官有地第一種)あり、因みに張州府志は、当社祭神并社名六所神社につき「祀国常立尊、国狭槌尊、豊斟淳尊、按、往昔有神祠六区歟、今所在三区」といへり。 明治神社誌料 |