鳴海柏神社
なるみてがしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】鳴海柏神社(鳴海杻神社) 尾張国 丹羽郡鎮座

   【現社名】鳴海柏神社(鳴海杻神社)
   【住所】愛知県犬山市羽黒成海郷 109
       北緯35度20分50秒,東経136度56分33秒
   【祭神】山岬多良斯神
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】清寧天皇2年創立という
       文治2年(1186)鳴海天神『尾張国神名牒』
       明治3年に式内社決定
       明治6年2月村社
       大正12年6月15日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造銅板葺
       祭文殿・神饌所・神樂所・拝殿・社務所

   【境内社】南宮社・神明社・多賀社・津島社

表記は式内社調査報告では鳴海杻であるが「全国神社祭祀祭礼総合調査」では柏が使用されている。
工業団地の南に鎮座する。
創立年月不詳。江戸期までに所在・祭神ともに不明となつていたが、天野信景等により羽黒村所在の当社が式内社と考えられ、明治3年に式内社と決定された。


鳴海柏神社

祭神 山岬多良斯神・高於加美神
鳴海てがし神社は式内社である。式内社とは、927年延長5年(平安時代)に編纂された延喜式神明帳に記載されている2861社の中の一つで、この他に犬山市内には、大県神社・針綱神社・虫鹿神社・立野神社・諸鍬(もろくわ)神社で合わせて6つの式内社がある。鳴海てがし神社の創建は明らかではないが、481年(清寧天皇2年(古墳時代中期)と伝えられおり、この羽黒が歴史ある土地であることを物語っている。
この神社の祭神の山岬多艮斯神(やまさきたらしのかみ)は出雲大社の祭神大国主命の流れをくむ神といわれている。
一方、高於加美神(たかおかみのかみ)は1912年(明治45年)にこの神を祭神とする貴船社が合祀され、祭神に追加されたものである。この他に、境内社として南宮社・神明社・多賀社・津島社の4社が祀られている。一方、この神社に併祀されている弁天堂は、江戸時代後期に建てられたもので、当時は満々とした池に浮かぶ風情ある姿であったといわれていたが、近年になって池の水が冬枯れするようになったため、往時の姿を取り戻すべく井戸を堀り下げ、一年を通して水をたたえる池を完成させた、これを記念して鎌倉の宇賀福神社の銭洗弁財天が祀られている。
なお、この神社の名前の『てがし』という語には、モチノキの意味が含まれており、境内には犬山の巨本50選に選ばれた「クロガネモチ」や「ハナノキ」がある。 弁財天は七福神の中で紅一点の琵琶を弾く弁天様でよく知られている。そもそも、弁財天は河川の神(水の神)で、日本三大弁天といわれる竹生島(滋賀県琵琶湖)・江の島(神奈川県)・厳島(広島県)などはいずれも水辺に配られている。また、財福・知恵・音楽・弁才の神としても信仰を集めている。太古より五条川は鳴海てがし神社より南側を流れていたが、1731年(享保16年:江戸時代)の大洪水で現在の五条川となつたといわれている。
もともと成海地区には、五柔川による大湿地帯が形成され、昭和初期までは地下水位が高く、各所に湧水があった。この良質で豊富な地下水を利用して戦前までは7軒の酒蔵があり、規在も酒蔵が2軒、地ビールが2軒と大手洋酒ブラントなど、多くの人がこの水の恩恵を受けてきている。

社頭掲示板



鳴海柏神社

祭神 山岬多良斯神・高於加美神
鳴海てがし神社は式内社である。式内社とは、927年(延長5年:平安時代)に編纂された延喜式神明帳に記載されている2861社の中の1つで、この他に犬山市内には、大県神社・針綱神社・虫鹿神社・立野神社・諸鍬(もろくわ)神社で合わせて6つの式内社がある。鳴海てがし神社の創建は明らかではないが、481年(清寧せいねい)天皇2年:古墳時代中期)と伝えられおり、この羽黒が歴史ある土地であることを物語っている。
この神社の祭神の山岬多良欺神(やまさきたらしのかみ)は出雲大社の祭神大国主命の流れをくむ神といわれている。
一方、高於加美神(たかおかみのかみ)は1912年(明治45年)にこの神を祭神とする貴船社が合祀され、祭神に追加されたものである。この他に、境内社として南宮社・神明社・多賀社・津島社の4社が祀られている。一方、この神社に併祀されている弁天堂は、江戸時代後期に建てられたもので、当時は満々とした池に浮かぶ風情ある姿であったといわれていたが、近年になって池の水が冬枯れするようになったため、往時の姿を取り戻すべく井戸を掘り下げ、一年を通して水をたたえる池を完成させた。これを記念して鎌倉の宇賀福神社の銭洗弁財天が祀られている。
なお、この神社の名前の『てがし』という語には、モチノキの意味が含まれており、境内には犬山の巨木50選に選ばれた「クロガネモチ」やrハナノキ」がある。

社頭掲示板



銭洗弁財天

【成海銭洗弁財天】
成海郷は、古桑より名水の里です、この地には延喜式内社・鳴海杻天神が千百年以上前から祀られ、境内には古くから清水の池が有りました。また水の恵に惑謝して七福神の弁天様が祀られています。しかし近年、地下水の低下により池の水が冬枯れするようになりました。そこて井戸を掘り下け、従来の池の中に内池を造り、水を汲み上けて一年を通して美しい水をたたえる池を完成させました。これを記念して新たに鎌倉の銭洗弁天を合わせてお祀りすることとなりました。
【鎌倉の銭洗弁財天について】
鎌倉の銭洗弁財天は、今から八百十数年前、鎌倉幕府の始祖てある源頼朝公が夢枕に現れた老人のお告げに従って、宇賀神を祀り供養を続けたところ、国中の民は富み栄えたと伝えられています。その後も弁財天を信仰する人が増え、持っている金銭を神水で洗い清めると福銭になるとの信仰が拡がり、その霊験あらたかなるを持って銭洗弁財天と呼ばれるようになりました。今では年間百二十万人が訪れています。
【当地と鎌倉の関係】
源頼朝公の没後、右腕と言われた梶原景時公は、鎌倉第一の功臣にも関わらず、御家人らから追放の憂き目を受け、駿州清見関で一族は討死をしました。しかし残った七人の家臣(福富・吉野・寺沢・福住・田山地・丹羽・斉木)が、景時公の孫を奉じてこの地の豪族、長谷部(今の長谷川)を頼って落ち延ぴ、羽黒に土着しました。その末裔は今もこの地で栄えており、二十数年前に羽黒の「梶原景時公顕彰会」が組織されました。こうした羽黒と鎌倉とのいにしえのご縁によって、このたび鎌倉宇賀幅神社のお許しを得て、当地にも銭洗弁財天をお祀りし、成海の神水でご供養をすることとなりました。
この神水で心身を洗い清め、みそぎをすることで、銭洗弁財天様の福徳利益をお受けくたさい。
鳴海杻神社

社頭掲示板



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