岩倉駅東に鎮座する。 当初の鎮座地は、小字丸之内にあり、岩倉城の築城された文明10年(1478)頃以降に、城内へ生田神社が勧請さた。 天文23年(1554)岩倉城主織田信安の老臣山内盛豊が勧請したと伝えられる。 永緑2年(1559)の岩倉城落城後は、真光寺へ移され、さらに文化7年(1810)に現在地へ移転された。 山内一豊公誕生碑が境内にある。 |
山内一豊誕生地 昭和49年11月15日市指定 山内一豊は天文14年(1545)岩倉城の家老山内但馬守盛豊の二男として、この地に誕生した。 大正8年(1919)2月神明生田神社の遷座式に一枚の棟札が発見ざれ、これが一豊のこの地での誕生の有力な資料となり、山内家では史家沼田頼輔文学博士に調査を行なわせ、岩倉のこの地を一豊誕生の地と認め、ここに贈従三位山内一豊公誕生地の碑を建てた。 父盛量は岩倉城落城(永禄2年3月)のとき戦死、一豊15歳の時であった。その後、一豊は家臣の五藤浄基が供で母や弟妹と共に刈安賀の城主浅井新八郎政高の許に身を寄せ、しばらくして牧村政倫のもとに寄寓。ついで山岡景隆に仕え、永禄10年(1567)〜元亀元年(1570)頃織田信長に仕える。天正12年(1584)には長浜で五千石の領主となり、同18年(1590)遠州掛川に移封六万石の領主となった。秀吉の死後徳川家康に味方し、慶長5年(1600)四国土佐で二〇万二千六百石の領主となり、高知城を築城。そして5年後の慶長10年(1605)9月12日一豊没す。 享年61歳。 岩倉市教育委員会 社頭掲示板 |
下本町山車 昭和49年11月15日市指定 下本町山車は寛永2年(1625)に製作され、尾張地方で最も古い山車であった。 その後、文化10年(1813)剣村の覚四郎により作り直され現在にいたっている。 形状は木製三段組立、漆塗りの豪華なものである。 この山車は別名「杉山」とも呼ばれ、祭には杉の枝を上段いぬい角の柱に立てるならわしがある。 山車のからくり人形は「ざい振り」と「菅丞相(かんしょうじょう)」の糸からくり、それに連台倒立の唐子がある、官丞相はチ植えの花の枝を人形が切り取る所作で唐子の方は片手で連台に逆立ちした人形が、片一方の手で鉦(かね)をチンチンとたたく離れからくりで、作られたのは天明5年(1785)、作者は隠居吟笑といわれる。 岩倉の山車は昔は旧暦の6月16日に行なわれる祇園祭に中本町の神明太一社を中心に曳行されたものである、 岩倉市教育委員会 社頭掲示板 |
山内一豊誕生地 昭和49年11月15日市指定 山内一豊は天文14年(1545)岩倉城の家老山内但馬守盛豊の二男として、この地に誕生した。 大正8年(1919)二月神明生田神社の座式に一枚の棟札が発見され、これが一豊のこの地での誕生の有力な資料となり、山内家では史家沼田頼輔文学博士に調査を行なわせ、岩倉のこの地を一豊誕生の地と認め、ここに贈従三位山内一豊公誕生地の碑を建てた。 父盛豊は岩倉城落城(永禄2年3月)のとき戦死。一豊15歳の時てあつた。その後、一豊は家臣の五藤浄基が供で母や弟妹と共に刈安賀の城主浅井新八郎政高の許に身を寄せ、しばらくして牧村政倫のもとに寄寓。ついで山岡景隆に仕え、永禄10年(1567)〜元亀元年(1571)頃織田信長に仕える。天正2年(1584)には長浜で五千石の領主となり、同8年(1590)遠州掛川に移封六万石の領主となつた。秀吉の死後徳川家康に味方し、慶長5年(1600)四国土佐で二〇万二干八百石の領主となり、高知城を築城。そして5年後、慶長10年(1605)9月12日一豊没す。享年61歳。 岩倉市教育委員会 社頭掲示板 |