針綱神社
はりつなじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】針綱神社 尾張国 丹羽郡鎮座
          (旧地)針綱神社【旧地】

   【現社名】針綱神社
   【住所】愛知県犬山市東丸の内
       北緯35度23分12秒,東経136度56分24秒
   【祭神】尾治針名根連命 比売命 伊邪那岐命 菊理姫命 大己貴命
       竹筒草命 建多乎利命 建稲種命 尾調根命 大荒田命

   【例祭】4月第1日曜日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】文治2年(1186)「針綱名神」『尾張国内神名牒』
       天文6年(1587)8月28日白山平に遷
       慶長11年(1606)4月8日名栗町に遷
       正徳5年(1715)正一位
       安永4年(1775)針綱の二字を加え、白山針綱大明神と称した
       明治維新後村社
       同8年10月29日郷社
       同15年9月28日現地に遷
       同15年11月28日県社

   【関係氏族】尾治針名根連
   【鎮座地】往古現在の犬山城天守台付近に鎭座
        天文6年(1537)織田信康により白山平に遷
        慶長11年(1606)名栗町にあつた八幡宮の境内地に遷
        明治15年に現社地へ移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「白山妙理権現」「白山針綱大神宮」と称していた
   【公式HP】 針綱神社
   【社殿】本殿神明造銅板葺
       太鼓橋・社務所・神禮授與所・拝殿・祭文殿・幣殿・祭器庫

   【境内社】神明社・市神社・琴平社・秋葉社・山神社
        杉木霊社・造酒社・大國社・稻荷社・小栗社・御饌社
        染甫社・鍛冶社・熱田社・天神社、猿田彦社・愛宕社
        八幡社・御建宮社


犬山城内に鎮座する。
往古より犬山の峰(現在の犬山城天守台付近)に鎭座していた。
神階も正二位・従一位とあり、鎌倉時代頃に昇叙したようである。
天文6年(1537)8月28日に城主織田信康により白山平(全長75mの前方後方墳)に遷された。
さらに、慶長11年(1606)4月8日には、名栗町にあつた八幡宮の境内地に移された。
江戸時代には、「白山妙理権現」、「白山針綱大神宮」と称され、城主成瀬氏代々の祈願所であった。
明治15年に現社地へ移転されている。
奉納からくりで名高い犬山祭が4月に斉行される。


由緒

当神社は延喜式神明帳所載の式内社で本国貞治本には従一位針縄明神又同亀本には正一位針綱明神とあり、太古よりこの犬山の峯に鎮座せられ東海鎮護、水産拓殖、五穀豊饒、厄除、安産、長命の神として古来より神威顕著にして士農工商の崇敬殊に厚く白山大明神と称えられ濃尾の総鎮守でありました。
中古織田信康公市内木の下城を社地に移築せんと御奈良天皇の宣旨を蒙り、天文6年(1537年)8月28日市内白山平に遷座し奉った。以後69年を経た慶長11年4月8日更に市内名栗町に遷座し奉り、城主成瀬氏代々の祈願所でありました。明治維新の後明治15年11月名栗町の座地より天文6年まで座地であった現在地に御遷座になり、戦前は県社とし戦後は宗教法人針綱神社(尾張5社の1つ)として近隣の崇敬を集めています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




針綱神社

御祭神
尾治針名根連命
玉姫命 伊邪那岐命 菊理姫命 大己貴命
建筒草命 建多乎利命 建稲種命
尻調根命(尾綱根命) 大荒田命
延命長寿安産祈祷
織田信康公の故事に倣い神威あらたかな長命の神いのちの神として御守を授与しています。
安産祈祷
織田信康公の故事に傲い犬は安産との云い伝えから安産守を授与しています。
子授け祈祷
織田信康公奉納の御神宝にあやかり子授御守を授与しています。
交通安全祈祷
交通災害の撲滅を期し交通安全を祈願して安全御守を授与しています。
合格祈祷
神社の末社に菅原道実公をお祀りした天満宮(太宰府天満宮の御分霊)があり、合格守学業守を授与しています。
家内安全商売繁昌
織田公の故事にあやかり家内安全商売繁昌のお札を授与しています。
神前結婚式場
神前結婚は日本の長い伝統で当神社も綜合結婚式場として広く利用されています。
御由緒
当神社は延喜式神明帳所載の式内社で本国貞治本には従一位針縄明神又同元亀本には正一位針綱明神とあり、太古よりこの犬山の峯に鎮座せされ東海鎮護、水産拓殖、五穀豊饒、厄除、安産、長命の神として古来より神威顕著にして士農工商の崇敬殊に厚く白山大明神と称えられ濃尾の総鎮守でありました。
中古織田信康公市内木の下城を社地に移築せんと御奈良天皇の宣旨を蒙り、天文6年8月28日市内白山平(お城の東方にあるお山)に遷座し奉った。爾后69年を経た慶長11年4月8日更に市内名栗町に遷座し奉り、城主成瀬氏代々の祈願所でありました。
明治維新の後同15年9月28日名栗町の座地より天文六年迄座地であった現在地に御遷座になり、戦前は県社とし戦後は宗教法人針綱神社(尾張五社の一つ)として近隣の崇敬を集めています。
針綱神社の犬
延命長寿、安産、子授、縁結、商売繁昌
今を去る四百数十年前の天文6年、信長公の叔父、織田信康公が自ら木の犬を彫り当神社に延命長寿、安産を祈願した。その犬は誠に素朴で良い出来とは云えないが大きな陽物をつけているのが特徴である。その犬を模して古くから小さな犬が授与され連綿と今に続いています。一説には、犬は織田広近(信康の四代前)を模して彫ったとも云われる。この広近と云う人は信康が犬山城を築く68年前の文明元年夏、犬山市内木ノ下の地に初めて城を築いた人で非常に活動力の優れた人であったと云う。この旺盛な力が商売と結ぴつき、商売繁昌の守護犬として商家に人気があったと云われている。
又、一説には、犬の特徴にちなみ神社に祈願するとよい殿御にめぐり逢えるとか、下半身の病を患わないとか、又、犬は安産故、安産、子授、縁結びの守護犬として若い女性に人気があり、おごそかに授けられたものと伝えられています。
又、命の神としても有名で戦のある度、出征する兵士、家族の参拝が後を断たなかった。
白馬
このお馬は古くから子供の守り神として霊験あらたかと云われ、お馬さんにお供えした豆を項くと歯ギシリ、ヒキツケが直ると伝えられており、願い事の叶うお馬さんとして信仰されています。
例祭
犬山祭として名高い四月初めの土曜日曜
慶安3年、尾張徳川家家老犬山城主成瀬隼人正正虎公の沙汰により氏子が行粧の山車、ねり物を出したのが、今日の山車の始まりとされている。各町内より曳き出される山車は高さ約八米、上層より上山、中山、下山の三層よりなり、重厚な構造美を見せている。現存する十三輌の山車は、昭和39年10月11日に「愛知県指定民俗資料」として県文化財に指定された。
この13輌の山車全部が「奉納からくり」を行うのは全国でも類がないと言われる。
桜花咲く四月万灯を飾り、提灯の明かりに映える夜山車の練行は夜空に浮ぶ白帝城と共に、豪華にして見あきない景観である。

由緒書



犬山祭の歴史

犬山祭は針綱神社の祭礼として始められた。
 19世紀初頭に善わされた『犬山里語記』によると、針綱神社の祭礼は、1615年(寛永12)に下本町が馬の塔を、魚屋町が茶摘みの練り物をそれぞれ出して始った。この前年に犬山は大火に見舞われたので、被災後の町の復興を祈願して行われたのかも知れない。また、1621年(元和7)には名古屋で東照宮祭が始められており、犬山城主が尾張藩の附家老であったことなどが何らかの関係を有したのかも知れない。いすれにしろ、1641年(寛永18)には下本町が馬の塔を車山に変えて人形からくりを奉納するようになり、その三年後には魚屋町もそれに続き、以後、城下の町村が車山・馬の塔・練り物で祭礼に参加するようになった。参加形態は町村によって差異はあったが、その多くは馬の塔・練り物から車山へ、あるいは踊り山を経て車山ヘと時代とともに発展した。また車山も、一層から二層へ、二層から三層へと発達したようで、18世紀前期には現在の車山の原型がほぼ整えられた。
 奉納からくりについてみると、その出し物は住民の信仰から考え出されたもの、能楽の一部分からとられたものなどさまざまであり、出し物の変更もあった。このからくり人形は、当初は素人の手作りであったが、18世紀中葉以降になると、からくり人形専門の細工師である名古屋の甚四郎・文吉離三・竹田藤吉・玉屋庄兵衛などに発注して作られるようになった。それと同時に演技も巧妙になった。  囃子は、現在の十三輌の車山のうち九輌が能管を用いており、能楽の藤田流によるものが多い。これは名古屋の熱田神社の神楽が藤田流の笛方でなされ、その楽員の指導を受けたためだと言われる。しかし楽譜がなく、先輩から後輩ヘと代々伝授されてきたために、長い年月の問に正調から逸脱したり、車山によっては新曲を作り加えたりして、独特の調べを奏する車山もある。
 車山を出して祭礼に参加するには多くの支出を必要とする。車山やからくり人形の修復、手子への祝儀、蝋燭・飲食・雑貨の諸費など、それにおよそ60年ごとには車山・幕の大規模な修復あるいほ再造をしなくてはならない。名古屋(東照宮祭)や高山(高山祭)の場合は封建領主からの経済的保護がされていたが、犬山はそれが全くなかった。それがため祭礼の全費用は4、50戸の各町内の負担となって重くのしか5ってくる。近年まで「車山のある町ヘは嫁をやるなと言われた程である。
 このような言わば車山文化とでも言うべきものを創ってきた犬山祭は、太平洋戦争の戦火が激しくなった1945年(昭和20)の一年を中止したほか途切れることなく、1964年(昭和39)には十三輌の車山が有形民俗文化財として愛知県から指定され、今日もひきつがれている。
祭礼に曳山の類を巡行する所は全国的にみると235個所ある。
そのうち、人形戯を有する曳山についてみると.全国に50地方・181基ある。この内東海地方には33個所、122基あり、実に73%を超え、このように名古屋を中心にした東海地方はまさに曳山や曳山人形戯の豊庫であるといえる。
 曳山のことを地方によっては「鉾」(ほこ)「山車」(だし)「屋台」(やたい)「車楽」(だんじり)等と呼んでいるが、犬山では「車山」と表記して「やま」と言い慣わされている。
 さて犬山の曳山は17世紀中葉から針鋼神社の祭礼に姿を現わすようになるが、当初は台車の上に飾り物を乗せて巡行するものであったようである。それが18世紀末には今日の三層山になっており、からくりも含めてこの頃にほすでに現在の車山の原型が整えられていた。
 伊勢宗治編『高岡御車山と日本の曳山』によれば、犬山の曳山が「三層式の中では一応起原が最も古いもの」と記され、藤田梨三氏の『美濃民俗』では「犬山式人形屋台」と独立分類がなされている。
 では、この犬山の曳山は何処の曳山の影響を受けたかということになると、名古屋附近の一連の曳山はその創始が名古屋の東照宮祭の山車に始まるといわれる。「犬山針綱神社祭礼絵巻」の行粧は東照宮祭のそれと類似しており、1621年(元和七)より曳山の始まった東照宮の祭礼が、犬山祭に与えた影響は充分あったと考えられる。但し、東照宮祭の曳山は二層であったのに対して犬山は三層へと独自の発展をし、単なる模倣に終っていない。
 つぎに、こうした犬山の車山は他の地域へと移出された。その一つに、岐早県恵那地方の大湫手(おおくて)の祭礼に曳き出される車山が犬山から移出されたものと口承されている。大湫手が犬山城主成瀬氏の旧領地であってみれば、文化の交流はなされていたと考察できよう。また、一宮市今伊勢の祭礼に曳き出される大聖車は、鍛冶屋町の車山が譲渡されている。
 これは犬山の車山の文化の高さを物語ると言えるのではないだろうか。
 このように名古屋系の曳山の多いこの地方に在って、独自の犬山型を完成し、しかも十三輔の車山全部に奉納からくりを有していることは、全国でも有数である。
 こうした土壌は、城下町として栄えた商人の財力もさることながら、町衆の心意気にほかならない。

http://www.mmtr.or.jp/~matsuri/dasi/index.html



針綱神

針綱神社は延喜式神名帳所載の式内社です。太古より犬山の峰(現在の犬山城天守閣付近)に鎮座され、濃尾の総鎮守でありました。
 創建年は不明ですが、延喜式に記載されていることから1000年以上この犬山の地に鎮座しています。
 先述の通り、古くは現在の犬山城天守閣付近に鎮座していましたが、天文6年(1537年)犬山城築城に際し、白山平(現在地より東方にある山)に遷座、その後の慶長11年(1606年)市内名栗町に遷座されています。そして明治維新の後の明治15年(1882年)、現在の場所に再び遷座されました。過去鎮座された白山平(小島町)と名栗町には犬山祭の際、御神輿が渡御されます。

公式HP



針綱神社

針綱は波里都奈と訓べし○祭神詳ならず○稻置庄犬山城下名栗町に在す、今白山と称す、(集説、府志)
考証、集説共に、旧事紀曰、建稲種命、邇波縣君祖大荒田女子玉姫為妻、生尾綱根命、姓氏録曰、若犬養宿禰尾綱根命之後也、犬山名起自犬養之称乎と云り、集説に、天孫本紀曰、天香語山命五世建簡草命男建多乎利命者、若犬甘連祖云々、連胤按るに、此引書はみな犬山に係りたる事にて、針綱神の徴には成りがたけれど、博覧のため爰に附す
神位
國内神名帳云、從一位針綱明神、

神社覈録



縣社 針綱神社

祭神 尾治針名根連命
世、白山社とも称す、創立年代詳ならすといへども、延喜式内社にして、奉唱國帳に「從一位針綱名神」と見えさせ給ふは当社にあらせらる、往古は犬山の峯に鎮座のところ、城主織田信康木の下に転城の際、天文6年8月28日村内白山中に奉遷す、後ち慶長11年4月8日中名栗町に奉遷、社領は慶長5年小笠原和泉守吉次寄進云々、尾張名勝志には社領十石と見え、神位正一位白山権現と額に見えたるよし記せり、当社は古來此地の産土神にして、且つ近くは旧域主成瀬氏の祈願所なりしが、明治維新村社に列せられ、間もなく8年10月郷社に昇格、更に15年11月20日縣社となる、同年9月当地字北古券に又移転す。
社殿は本殿、祭文殿、拝殿、神輿舎、神馬屋等を具備し、境内地1596坪(官有地第一種)名所図会頌して云く、城下第一の霊社なりと、宜なる哉、当社然れば有名のものにして、車樂を出し行粧善美を尽せるが、慶安3年成瀬正虎の令に依りて起りしものなるが、今尚昔の如しと、
「日光登山道之記云、太田の神に休みて太田川をわだる、こゝより御嶽といふ所まで、左右ともに畑なり、川を聞々申の時ばかりやどりにつきて、かれ飯くひ酒たうべて、けふのつかれをやすむ、あたり近き針綱の神主赤堀大隅守はしる人なり、こゝにやどる事を聞て、太郎長門守もて、大ぬさにくさぐさのものどもそへて送りぬ、やがてたいめして物語時をうつす、やうやうわかれをつぐるに、彼御社を遙秤して、
 色もなきことの葉なから此たひのぬさと手向てあふく神垣 外山前宰相光實卿
こたび日光の宮に、みてぐら使うけ給はりて木曾路を行く鵜沼の宿にて針綱の御社を遥に仰ぎて
 都出て旅のころものきそちにとゆく手はるかにあふく神垣 石井大納言行宣卿

明治神社誌料



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