|
一宮IC北西に鎮座する。 垂仁天皇の品津別皇子は7歳になっても言葉が出なかった。 皇后の夢枕に天甕津媛(出雲の神)が現れ、「私をまだ誰も祀ってくれないが、もし神社を建てれば皇子も話ができるようにしよう」と告げた。 美濃国花鹿山(岐阜県揖斐郡谷汲、式内社花長神社)から榊の枝の蔓(古代の髪飾り)を投げるとこの地に飛んで落ち、この地に社を定めたという。 阿豆良は蔓(かずら)からきた名称といわれる。 現社地より北二町(約200m)程の処に元の社地がある。この旧社地には、昭和45年9月建立の阿豆良神社旧跡の碑(自然石)が建っている。 さらに700m北方には、馬見塚遺跡B地点と称する縄文時代晩期から古墳時代にかけての祭祀遺跡があり、あるいは、この地点が阿豆良神社本来の旧跡である可能性が考えられる。 |
|
由緒 吾鬘に鎮座まします神で、郷社(式内)阿豆良神社と申すが本名であります。 祭神は天みか津媛命で垂仁朝57年(紀元688)の創建、今年から1942年前に当る古社であります。熱田神宮、津島神社、内津神社よりも古く、大県神社、国府宮尾張大国霊神社と殆ど同時代で一宮真清田神社だけが神武朝33年であるから古いのであります。 尾張本国神名帳集説に「従一位阿豆良名神在稲置庄吾鬘村、釈日本紀尾張風土記中巻曰、丹羽郡吾鬘郷巻向珠城宮御宇天皇(垂仁)品津別皇子、生七歳而語。傍問群下無能言之、乃後皇后夢有神告曰、吾多具国之神、名曰阿麻彌加都比女、吾未得祝、若為吾充祝人皇子能言、亦是寿考、帝ト人覓神者日置部等祖建岡君ト食、即遣覓神、時建岡君到美濃国花鹿山攀賢木枝造縵誓曰吾縵落処、必有此神縵去落於此間、乃識有神、因堅社由社名里、後人訛言阿豆良里也。」 右の由緒は諸書にありますが其の中最も簡結なものです。これを意訳しますと「垂仁天皇に品津別皇子と云う皇子がありました。生まれ乍ら唖で七歳になられても言葉が出ません、天皇は御心配の余り群臣に治療の方法を御尋ねになりましたが、誰も明答を致しません。一夜皇后様の夢に「私は出雲の阿麻彌加都比女(天みか津媛)と申す神であるが、今迄誰も祀ってくれないが祠を立て神に祭るなら、皇子の唖は立ち所に治り天寿を全うして長生が出来やう。」と申して枕神は消えました。天皇は臣下に卜占はせて建岡君に祭神の事を御委せになりました。 建岡の君は美濃国花鹿山(揖斐郡花長神社現存)に登って山中の榊の枝で縵(古代頭髪に押すもので「カンザシ」に当る)を作つて、天神に祈って「此の縵の落ちた所が神を祭る所である。」と申されて縵を遠く投げられました。縵は遠く南方に飛んで此の地に落ちました。 そこで直ちに神殿の造営にかかって天みか津媛命をお祀りになりました。「みづら」によって地名となり後世言葉がなまって「あづら」となりました。古来此の神社に祈願すると聾唖が治ると申すのも由緒から来たものであります。境内神社中に神宮司社と云うのがありますが前に述べた建岡の君が祀ってあります。(昭和56年1月) 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
|
阿豆良神社 阿豆良は假字也、和名鈔、(郷名部)吾蔓、○祭神阿麻乃彌加都比女命、(風土記)〇稲置庄吾蔓村に在す、(集説、府志)○尾張国風土記中巻曰、(釈日本紀所引)丹羽郡吾蔓郷、巻向珠城宮御宇天皇御世、品津別皇子生七歳而不語、傍問群下、無能言之、乃後皇后夢有神告曰、吾多具國之神、名曰阿麻乃彌加都比女、吾未得祝、若為吾充祝人、皇子能言、亦是縣考、帝卜人覧神者、日置部等祖建岡君卜食、即遣覚神時、建岡君到美濃國花鹿山、攀賢樹枝造蔓、誓曰、吾蔓落処、必有此神、蔓去落於此間、乃識有神、因竪社、由社名里、後人訛言阿豆良里也、 神位 國内神名帳云、從三位阿豆良天神、(一本作吾蔓)、 神社覈録 |
|
郷社 阿豆良神社 祭神 天甕津姫命 阿豆良一に吾縵とも記す、延喜式内社にして、国内神名帳に「從三位阿豆良天神、」と見えたり、当社創立は垂仁天皇の御代か、釈日本紀所引の尾張風土記に云く、 「丹羽郡吾縵郷、巻向珠域宮御宇天皇御世品津別皇子生七歳而可語云々、乃後皇后夢有神告曰、吾ハ多具国之神、名曰阿麻乃彌加都比女、吾未得祝、若為吾充祝人、皇子能言、亦是寿考、帝卜人覚神者、日置部祖建岡君卜食、即遣寛神時、建岡君到美濃国花鹿山、攀賢樹枝造縵、誓曰、吾縵落処、必有此神、縵去落於此間、乃識有神、因堅社、由社名里、婦人訛言阿豆良里也」 と見ゆ、今と社地や異なりけん、尾張志に云く、「此祀往古は今の地よりやゝ北の方に坐しゝを、今の地に移し奉るなりと里人いへり、」とみえたり、明治5年5月郷社に列せられ、同12年斎宮神社を合祀す。 社殿は本殿、拝殿、渡伝、祭文殿。土蔵、社務所等を具備し、境内地963坪「官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |