伊富利部神社
いぶりべじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊富利部神社 尾張国 葉栗郡鎮座

   【現社名】伊富利部神社
   【住所】愛知県一宮市木曽川町門間北屋敷 3714
       北緯35度20分19秒,東経136度47分47秒
   【祭神】若都保命 (配祀)誉田和気尊
   【例祭】10月8日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創立年代不詳
       康正元年(1455)社殿焼失
       弘治2年(1556)に現在地に遷宮
       天正10年黒田城主沢井左エ門尉雄重再建
       明治7年郷社
       明治43年神饌幣帛料指定社

   【関係氏族】伊冨利部氏造
   【鎮座地】旧地は北西の方角へ一町
        弘治2年(1556)に現在地に遷宮

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「八幡社」と称していた
   【公式HP】 伊富利部神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】神明社・稲荷社・浅間社・天神社・春日社・厳島社
       貴船社・若宮社・龍神社


一宮木曽川IC南に鎮座する。
伊冨利部の社は伊福部(いほきべ)と読み上古伊福部の連は天孫瓊々杵之尊の子天火明命九世の孫弟彦之命の弟若都保命を御祖とする。
天火明命は鏡を作る技術を持ち若都保命は金属製錬の技をつたうるという。
境内出土と伝えられる鉄剣は砂鉄で鍛えた奈良時代のもので、木曽川町の文化財に指定されている。
往古より八幡(ヤワタ)の八幡として知られているが八幡社が勧請されたのは、全国に八幡信仰が盛んになった平安末期以降のことであろう。
弘治2年(1556)に現在地に遷宮される以前は、現在地より北西の方角へ一町ほどのところにあり、その地を八幡畑と称していたという。


由緒

創立は不詳延喜神名式に葉栗郡伊冨利部神社本国帳に従三位伊冨利部天神一本伊冨利部天神とある之なり。
往古より八幡(ヤワタ)の八幡として社殿楼閣末社神官邸宅等周圍一里に達する神域なりしと言い伝えられる、康正元年(1455)社殿焼失す天正10年黒田城主沢井左エ門尉雄重再建す、明治7年郷社に列格さる明治43年神饌幣帛料指定社となる、昭和4年11月9日県社に列格される。
伊冨利部の御社は伊福部(いほきべ)と讀み上古伊福部の連は天孫瓊々杵之尊の御子天火明命九世の御孫弟彦之命の御弟公若都保命を御祖とす、天火明命は鏡を作る技術を持ち若都保命は金属製錬の技をつたうると伊冨利部の連は大和葛城山麓より尾はり田の國に國郡の主としてこのあたり土器野なる地に居住し其の祖を祭り業を行へり、時代は弥生後期古墳前期頃と学者の指摘する所なり天武天皇13年(685)伊冨利部氏に宿祢の称を給いしは壬申の乱に村国男依と共に美濃尾張二万の軍勢を中心として活躍せし功績によるものか、また桓武天皇延暦12年(793)平安京御造営には大内裏12門の内殷富門美濃尾張の伊冨利部氏造と續日本記日本記略等の古書に見えたり、かくて其の祖を祀り伊冨利部天神と申しこの地方に栄えしなり。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




伊富利部神社

鎮座地 葉栗郡木曽川町大字門間宇北屋敷3714番地
御祭神 若都保命 誉田別命
例祭日 10月8日(旧8月15日)
式内伊富利部神社は伊副部氏の祖神若都保命を祀る。
命は天孫瓊々杵命の御兄神天火明命の裔弟彦命の御弟神に座します。
延喜式神祇巻九に葉栗郡十座の内伊富利部神社、本国帳に従三位伊富利部天神と載録せられ相殿に上門間庄の一の宮として誉田別命を祀り正八幡宮と申し往古より社殿楼閣高く聳え楼門宝蔵あり数十の末社神官邸宅等周囲一里に達する神域なりと言伝えらる。
後花園天皇の康正元年(1455)社殿焼失し社地をも減ず。
後奈良天皇弘治2年(1556)和田河内守願主となり社殿を再建す。
又正親町天皇天正10年(1582)黒田城主沢井左工門尉雄重深く尊崇して之を再建し神慮を慰め奉る。
伊冨利部神社

社頭石碑



伊冨利部神社

伊冨利部天神社創建 延喜式(905〜927年)神名帳に葉栗の一座伊冨利部天神と記載されている所謂式内社で、当地の豪族伊福部一族が祖神である若都保命を創祀したのが起源である。創建年月は詳らかではないが、延暦13年(794年)〜弘仁元年(810年)のおよそ1200年前に創建されたものと思われる。若都保命は天孫瓊瓊杵命の御子なる天火明命九世の御孫、弟彦命の御弟神に座します。延喜式神祇巻九に葉栗群十座の内伊冨利部神社、本国帳に従三位伊冨利部天神と載録されている。
伊冨利部八幡宮創建
当神社神域は石清水八幡宮の荘園になっていた事から石清水八幡宮創建の貞観元年(859年)から天永元年(1110年)にかけて伊冨利部八幡宮が伊冨利部天神に隣接して創建されたものと思われる。
伊冨利部八幡宮を伊冨利部天神に合祀
数十の末社、神官邸宅等周囲一里に達する神域なりと言伝えられる。後花園天皇の康生元年(1455年)戦禍により両神社はすべてを消失し、天正10年(1582年)3月に黒田城主和田八郎公が八幡宮を再建、同年9月に黒田城主澤井雄重公が天神社を再建、その後万治3年(1660年)に八幡宮を天神社に合祀して現在の伊冨利部神社に至っている次第です。

公式HP



伊冨利部古墳

一宮市指定文化財
史跡伊冨利部古墳
一宮市木曽川町門間字北屋敷3714
伊冨利部神社
昭和58年2月1日指定
伊冨利部古墳は高さ4m、直径約20mの円墳である。昭和39年(1964)より始まった区画整理により明らかになった「門間遺跡」の中心的存在である。この付近では、円墳の痕跡や横穴式石室の基底部と思われる石組みも発掘調査で検出されており、相当数の後期古墳があったとされている。
伊冨利部氏(伊福部ともいう)は、正倉院文書に「伊福部大磨」という名が記されており、伊冨利部神社を氏神とする有力な豪族で、門間一帯に住んでいたことがうかがえる。なお、神社に保管されている古剣は、この古墳からの出土品とも考えられる。
一宮市教育委員会

社頭掲示板



伊富利部神社

伊富利部は假字也〇祭神詳ならず○門間庄門間村八幡歟、(集説)
考証に、伊福郡氏の祖とせるは覚束なし、」伴信友云、風土記(宇夫須那社の下に所引)に、所謂蘆入姫の事思ひ合すべしと、猶考ふべし、

神社覈録



郷社 伊富利部神社

祭神 誉田和氣命 旧と八幡宮とも称す、康正元年紀録焼失して(ロ碑)創立年代詳ならずといへども。延喜式内社にして、國内神名帳に「従三位伊福利天神、」と見えさせ給ふ、尾張名所図会に云く、
「近頃は式の神号のみを呼べり、元は八幡村の八幡とて、国分寺と同じく、諸國にある例にて、四國の行者どもは、かならず参詣するならはしなれば、常に諸国の詣人絶ゆる事なく、殊に国分寺は廃跡のみなるを、当社は今も厳然と霊験日々新にして、神さびわたらせ給ふはいとめでたきことなり、其うへ式の旧号に復しぬれば仰ぐとも猶あまりあり、」
往昔は頗るの大社にして、「東西百間南北六十間、社領五町八段八畝歩」と明細帳に見えたるが、今尚ほ郡中の大社なりと、古来福塚黒田両村の産土神にして、天正10年3月。黒田城主沢井左衛門尉雄重再建のこと傳へられたるが、明治5年郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿、社務所等を具備し、境内地2040坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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