日本武尊が東征したさい、伊吹山へ向かう途中でこの地で休息したという。その後、この地に熱田神宮から分祀したという。 慶長5年(1600)徳川軍が岐阜城の織田秀信軍を攻めた時、鎧を脱ぎ松に掛けて休息したという「池田輝政公鎧掛けの松」が境内にある(二代目?)。 当社を川島神社に比定する説がある。 |
八剣神社 往昔日本武尊当村を経過し給ひし時、現今本社鎮座の地に休憩し給ふ事ありたると言ひ伝ふ。明治7年郷社と定めらる。 岐阜県神社庁 |
八剣神社 由緒記 御祭神は日本武命で創建年代は詳らかでないが、尾張の国熱田神宮の分霊と伝えられる。 その昔日本武命が伊吹山の賊征伐に向われる途中この池で体息されたと伝えられる。寛永12年(1635)の「下印食村畑方検地帳」に小字名「八つるぎ」の記録がある。 慶安4年(1651)初めて拝殿(舞殿)が建立され同年9月9日を祭礼日とされた。 享保14年(1729)の「下印食村差出諸色様子書上帳」に、「八剣神社大明神三尺四面、社人無御座候、舞殿有リ、灯明立壱ケ所、敷地八反五畝十五歩、証文無御座得候共古来より御除地御座候」と記されている。寛政2年(1790)の境川左岸下印食地 区の地図には八剣宮と記されている。 明治7年(1874)郷社となり、祭礼日は10月9日と定められた。 昭和5年(1930)本殿、幣殿、渡殿及び拝殿等が大改築され現在に至る。当時の本殿の玉垣は、慶長5年(1600)徳川軍が岐阜城の織田秀信軍を攻めた折、鎧を脱ぎ松に掛けて休息したという「池田輝政鎧掛けの松」の玉垣として境内北西に現存している。嘗ては多く生い茂っていた松の巨木も松喰い虫に侵蝕され現在ではその面影を留めない。 昭和39年(1960)銀幣社に昇格された。 現在の八剣神社は、一の鳥居から三の鳥居までの参道両側に、氏子の寄進による春日燈籠が数多く立ち並んでいる。 社頭石碑 |
郷社 八劒神社 祭神 日本武命 創立年代詳ならず、相伝ふ、往昔日本武尊の東夷を征討したまひての帰途、尾張国尾張氏の女、宮簀媛の許に逗留したまひし砌、近江國伊吹山に荒ぶる神ありと聞き給ひ、之を退治なし給はんとて、海東海西中島の三郡を経て葉栗郡に出で、遂に不破郡に入りて、伊吹の妖蛇を退治し給ひし事は、古来人口に膾炙せる事實にして、其当時尊の往返せられし土地なるが故に、尊薨去の後、熱田神社より分霊して奉祀するものなりと云ふ、新撰美濃志に云く、下印食村は徳田の北にあり、吾妻鏡承久記承久軍物語に志るしたる、尾張川九瀬のうちの食渡はこゝなるべし、上印食、下印食ともいんじきとは称せず、かみじき、しもじきと呼べり、加納領千二百石七斗九升、新開村は下印食のうち也、八劒神社あり云々」と、今八劒村と改む、蓋し八劒祠あれば也、俗に自貴と呼ぶは頭音を脱したるにて伊達をダテとも唱ふるに同じ、古書に食の渡と云ふは、東曾川の一渡津にて、尾州より当国厚見郡へ越えしならん、今は印食より南二十余町にして、園城寺に鐵道架橋あれど、昔は地勢も異なりし故に、印食渡も此村に在りし也、明治7年郷社に列せらる、曾て本殿、舞殿等を具備せしが、明治24年10月28日、大震災のために悉く倒潰し、今は仮りに本殿、拝殿を再興せしのみと云ふ、境内坪数1862坪(官有地第一種)を有し、千古を経たる老松鬱蒼として、社頭を護るものゝ如く、賽者一たぴ社域に入れば、自ら心身の清爽たるを覚ゆ。 宝物は古棟札一枚、古鏡一面、高麗狗一対等あり。 明治神社誌料 |