篭守勝手神社
こもりかってじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】黒田神社 尾張国 葉栗郡鎮座

   【現社名】篭守勝手神社
   【住所】愛知県一宮市木曽川町黒田往還東ノ切 11
       北緯35度20分55秒,東経136度47分12秒
   【祭神】瀬織津比当ス 淀比当ス
       式内社としての本来の祭神は、未詳とすべきであろう

   【例祭】9月9日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       雄略天皇の時には存在と伝
       景雲年間奉幣
       寛平年間奉幣
       天暦5年(951)村上天皇病気平癒祈願
       天正10年(1582)黒田城城主沢井雄重(織田信雄の家老)により再建
       明治5年5月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「黒田大明神」「白山神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】天照皇大御神社・熱田社・大山祇社
   【神宮寺】光明寺(今はない)

きそがわ駅東、黒田北保育園南東に鎮座する。
履中天皇の崩御の後大泊瀬幼武王(雄略天皇)は皇位を争って市辺押盤皇子を殺した。
市辺押盤皇子の子億計・弘計之2皇子は雄略天皇の難を逃れて真清田へ向かう途中当地に駕籠を止め泊まられた。村人がこれを饗応したと伝えている。
以前は勝手に籠もって祈願することができた。


由緒

尾張国上門間ノ壮松枝ノ郷黒田ノ里ハ往昔木曽川下流ノ幾状トナキ流域中ニ介在シ降雨ノ都度濁水氾濫ノ為、田園ヲ流出シ曽テ五穀ノ豊穰ヲ見ス毎年ノ雨期里人ハ此処彼処ニ蹲リ旦彷徨シ施ス可キ術ヲ知ラサリキ皇極2癸卯年3月上丁ノ日始メテ瀬織津比当ス淀比当スノ御神札ヲ行フ爾後里人ノ尊信次第ニ加ハリ終ニ神霊ノ冥護ニ依リテ積年ノ水害モ漸ク免ルルヲ得タリ。
今其神徳ヲ温ヌレハ瀬織津比当スハ世ノ中ノ罪穢ヲ清メ凶事ヲ除キ去リ給フ神ナリ淀比当スハ豊姫豊比当ス又ノ名淀姫又王妃命トモ謂フ神功皇后ノ御妹ナリ三韓征伐ノ時干珠満珠ノ両顆ヲ得皇后ニ奉リテ異国ノ凶徒ヲ海中ニ覆没セシメ大功ヲ立テ給フ、48代称徳天皇景雲年間及59代宇多天皇寛平年間ノ両度官幣ヲ奉ラレシカハ爾来景雲祭ト称シ現在ニ臻ル、神礼ヲ執行シツツアリ。
62代村上天皇ハ天暦5年ノ春洛中其外大疫病流行シ蒼生ノ悲惨極リナク宸襟ヲ悩マシ給ヒテ勅使ヲ遣シ病気平癒ヲ御祈念マシマセリ斯クテ御裔胄ニアラセラルル久我雅定卿ヲ始メ御代々御崇敬厚ク候爵従一位久我建通卿ハ籠守勝手神社ト彫鏤ノ額面及猶常通卿ニハ先々代建通卿御所用ノ立櫻直衣ヲ御寄進アリ
天正10年3月黒田城主澤井左衛門尉雄重深ク当神社ヲ御崇敬セラレ本殿ヲ再建シ武運長久ヲ祈願セラレタリ
尾張国式社考書ニ黒田神社坐門間荘黒田村北宿松枝郷黒田ハ久呂太ト訓ムヘシ地ノ名ナリ国帳元亀本ニ正四位黒田ノ天神民部省図帳ニ尾張葉栗郡黒田明神神田35束外以海鮮食塩為横貢皇極2年3月初行神札神霊淀比当ス瀬織津比当ス二座也久我家相続以使祭之3月上丁ノ日ト有リ
愛知県神社明細帳ニ延喜式神名帳所戴黒田神社也ト又張洲府誌尾張誌等ニモ黒田明神ハ籠守勝手神社也ト見ユ此社往古ヨリ裡語籠守勝手大明神ト申伝フ尾張名所図絵ニ黒田神社黒田村ニ在リ当所ノ生土神ニシテ延喜神名式ニ葉栗郡黒田神社本国帳ニ従三位黒田天神ト記セリ
例祭9月9日国内神名帳明治神社誌料葉栗郡紀要ノ諸書ニ記載セラル
大泊瀬幼武ハ市邊押磐皇子ヲ誘ヒ興ニ猟シ是ヲ射殺ス皇子ニ二子有リ億計弘計ト謂フ二皇子ハ危害ヲ懼レ丹波ヨリ尾張一宮真清田神社ヘ遁レ給ハントテ其途路当神社ノ鬱蒼タル森林中ニ畏クモ御籠檻ノ儘御寝息坐シマセリ因ニ後世ニ至リテ黒田山黒田明神ヲ籠守勝手大明神ト尊称サレタリ
明治5年壬申5月愛知県下第4大区12小区9ケ村郷社ニ制定セラレ翌6年10月27日郷社制定奉祝祭執行ニ付黒田村内割田村外割田村玉ノ井村三ツ法寺村里小牧村北方村中島村曽根村ノ各村ヨリ神楽餅投ケ相撲ノ余興ヲ奉納セリ爾来氏子崇敬者ノ信仰弥高ニ弥広ニ日夜改善ニ腐心シ社殿モ宏壮ニ祭文殿廻廊拝殿神橋鳥居埒門社務所神馬舎斎館神庫等ヲ新築シ神苑ヲ拡張シ神域ノ壮厳ヲ加ヘ又神社財産ノ増加ヲ企画充実セシメ今日ニ臻レリ。公爵久我常通書。
昭和5年9月9日建之。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




籠守勝手神社

人皇第17代履中天皇は大泊瀬幼武王を嗣となされた後、市辺押盤皇子をことのほかおいつくしみになられた。そして、市辺押盤皇子をのちにお立てしようとお考えになられたので大泊瀬幼武王はひどくこれをにくみ、近江国蚊屋野の野に鹿のご猟をすることにかこつけて、はかり事をし、ついに市辺押盤皇子を殺害してしまった。
お気の毒に殺害された皇子には億計王、弘計王の二皇子がおありでしたが、いちはやく父君のようすが伝えられ、二皇子は大泊瀬幼武の危害が自分たちの身にもふりかかることをおそれられた。
二皇子は難をのがれるため、尾張国一宮真清田に向う途中、美濃の及村を経て、木曽川をお渡りになられ、玉の井から、松枝の里を通り、田所へお着きになった。
黒田松枝郷に鎮座する黒田明神の社森にお籠をお止めになられ、籠の中で一夜、お泊りになられた。その夜はちょうど葉月15日の望月の夜とあって、村人は親切にもてなし、お芋(里芋)によるごちそうを添え、一夜の饗宴をしてもてなした。
里人はみな、皇子のおしのびのお心を慰めたのである。お二方はこのもてなしを、ことのほかお喜びになられ、里人の饗宴に対する礼にと、芋の葉にうるわしい夜露を黒田明神に奉献された。同席の里人もみな、お二方のご多幸を祈願申し上げた。
しかし、おしのびのこととてお二人は夜明けをまたずにご出発されて行ってしまった。これ以後、黒田明神を籠守勝手神社と尊称されるようになったものであると言い伝えられている。



篭守勝手神社

御駕籠祭 陰暦8月15日 第17代履中天皇は大泊瀬幼武王(後の雄略天皇)を世嗣となされた後、市辺押盤皇子(天皇の長子)をことのほかおいつくしみになら、後にお立てしようと考えられたので、大泊瀬幼武王はひどくこれを憎み、近江国蚊屋野で鹿狩りすることにかこつけて、ついに市辺押盤皇子を謀殺してしまわれました。
皇子には億計王(後の仁賢天皇)、弘計王(後の顕宗天皇)の二皇子がおありでしたが、いちはやく知らせを受けられ自分たちにも危害の及ぶのを恐れ難をのがれるため、尾張国一宮真清田に向われる途中、黒田の郷に鎮まります黒田明神の森にお籠を止められお籠のままお泊りになりました。
折しも陰暦8月15日望月の夜の事とて村人より親切な里芋の饗応を受けられ、大変喜ばれた御二方はそのお礼にその芋の葉の露を黒田明神に奉献せられ、村人等の幸福を祈られ夜明けを待たずにお立になりました。
この古事をを記念して二台のお駕籠にお芋を供え祭が斉行せられます。
尚現在、神社に参籠する人は無くなりましたが、過去には願い事悩み事のある人が勝手に参籠し心願すれば必ず成就するとの習わしにより後の世に黒田明神を籠守勝手神社と尊称せられる用になりました。
景雲祭 10月20日
祭神淀比当ス(神功皇后の妹)が三韓出兵で大功を立てられた事□□称徳天皇は景雲年間の10月20日に官幣を奉られました。
□□淀比痘lをお迎えしてお籠守様から熊野社へ御渡せられる様になった神事で、厄男が奉仕し厄祓いと五穀の豊穣を祈念して祭が斉行せられます。
稲種祭
陰暦3月上丁日
この日稲籾鮮魚食塩を供え其の稲籾を氏子一同に分け与え、其の歳の種子として各戸苗代田に蒔き豊穣を祈念する祭でした。

社頭掲示板



御駕籠祭

天皇陛下御在位六十年記念
籠守勝手神社特殊神事御由緒
御駕籠祭
陰暦 8月15日
第17代履仲天皇は、大泊瀬幼武王(後の雄略天皇)を世嗣とされた後市辺押皇子(天皇の長子)を殊の外お慈しみになり、あとにお立しようと考えられたので大泊瀬幼武王はひどくこれを憎み近江国蚊屋野原で鹿狩りをする事にかこつけて遂に市辺皇子を謀殺してしまわれました。
億計王(後の仁賢天皇)弘計王(後の顕宗天皇)の二皇子がありましたが、いち早く知らせを受けられ自分達にも危害の及ぶのを恐れ難を逃れる為、尾張一宮真清田へ向われる途仲黒田の郷に鎮まります黒田明神の森にお駕籠を止められお駕籠のままお泊りになりました。
折しも陰暦8月15日望月の夜の事とて村人より親切な里芋の饗応を受けて大変喜ばれた御二方はそのお礼に芋の葉の露を黒田明神に奉献され村人等の幸福を祈られて夜明けを待たずにお立ちになりました。
この故事を記念して二台のお駕籠にお芋を供えて祭が斎行せられます。
尚現在神社に参籠する人は無くなりましたが過去には願い事・悩み事の有る人が勝手に参籠し心願すれば必ず成就するとの習しにより後の世に黒田明神を籠守勝手神社と尊称せられる様になりました。
景雲祭 10月20日
御祭神の淀比当ス(神功皇后の妹)が三韓出兵で大功を立てられた事によって称徳天皇は景雲年間の10月20日に官幣を奉られました。
以来神輿に淀比痘lをお迎えしてお籠守様から熊野社へ渡御せられるようになった神事で厄男が奉仕し厄祓いと五穀の豊饒を祈念して祭が斎行せられています。
稲種祭
陰暦3月上丁日
此の日、稲籾、鮮魚、食塩を供え其の稲籾を氏子一同に分け与え其の歳の種子として各戸苗代田に蒔き豊饒を祈念する祭でした。

社頭石碑



黒田神社

黒田は久呂陀と訓べし○祭神詳ならず○上門間庄黒田村に在す、今大明神と称す、(府志)
類社
河内国志紀郡黒田神社の條見合すべし
神位
國内神名帳云、從三位黒田天神

神社覈録



郷社 籠守勝手神社

祭神 淀比当ス 瀬織津比当ス
創建年代詳ならす、但延喜式内社黒田神社は当社なりと、張州府志、尾張志、尾張名所図会其他諸書に見えたり、黒田神社は国内神名帳に「従三位黒田天神」と見えさせ給へり、今籠守勝手神社と称するは、何の故たるを知らざれども、古来俚語相傅ふる社号なりと、当所の産土神にして、明治5年5月郷社に列せられたり。
社殿は本殿、拝殿、神饌所等を具備し、境内地1520坪(官有地第一種)あり、因みに譜書当社を以て黒田神社とすといへども、特選神名牒は黒田神社に対し、何等記す所なし、後考を要せしにや。

明治神社誌料



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