一宮北高校南に鎮座する。若栗神社・八幡宮と称している。 第5代孝昭天皇は長くこの地に滞在し、尾張連の遠祖、興津余会公(おきつよそ)の娘を妃とし、祭神天押帶日子命を生んだ。 天押帶日子命の後裔葉栗臣人麿が白鳳年中に創建と伝えている。 慶長10年(1605)領主景松又四郎正吉が武運長久祈願のため石清水八幡宮を勧請合祀した。 島村には、一宮市の無形文化財に指定されている「島文楽」が伝えられているが、その道具類は、若栗神社に保管されている。 |
由緒記 若栗神社八幡宮 祭神 天押帯日子命 応神天皇 延喜式神名帳の若栗天神に充てられ本国神名帳に従三位若栗天神とあり明治5年村社同10年八幡宮を併称昭和10年県杜に昇格 子授けの神徳ありと伝える 社頭石碑 |
若栗神社八幡宮 式内 若栗神社八幡宮 祭神 天押帯日子命 応神天皇 当神社は尾張国最古の聖蹟にして尾張平野の土民が創めて皇化に浴し奉りし淵源地たる延喜式従三位若栗天神是なり。 人皇第5代孝昭天皇此地に永らく御駐輦あらせられ尾張連の祖奥津余会公の御時世襲足媛命を召し第6代孝安天皇御兄弟を産せられし行在所と伝え奉る。 当神社祭神は孝昭天皇の第一皇子にして孝安天皇の御兄弟たる天神帯日子命に在しまし畏くも皇位を御弟君に譲らせられ御身自らは永らく尾張平野に留まり在まし此地を開拓し文化を奨導し東国鎮定の御重任に御一生を終らせ給ふ而して祭神の姫君押媛命は孝安天皇の皇后にならせられ孝霊天皇を産ませらる祭神の後裔は葉栗臣、知多臣、大毛臣、春日臣等尾張国内に充満せり。 当神社は御神威弥高く殊に聖蹟の御由緒に因みて古来男子出生祈願のため遠近の崇敬浅からず茲に最も痛快なる伝説は若し一家に数人の女子を産し男子なき時は此神に祈り「わくり」と命名せば必ず次には男子出生するとの信仰を伝ふるを以て余りに女子のみを産せし最後には「ワクリ」「おわくり」と命名して御神験を得たる実例少なからず。 尾州七代章喜院殿権大納言徳川宗春公の御側室栄間院殿には御男子なきを憂れさせられ御家臣にして当所所領兼松氏御案内のもとに享保14年奥女中御代参あり御小袖御持参当社にて御祈祷を受けさせられ御帰城の処程なく御男子出生ありし御欣の余り当時の御長持に短刀相添え御奉納あり今尚金葵御紋付高蒔絵御長持一棹並に金御紋散し御守刀を神宝として保存せり。 慶長10年織田信長の臣にして此地の領主たる兼松又四郎正吉武運長久の為の男山八幡宮を合祀し以来引き続き兼松氏の崇敬により徳川時代俗に八幡宮とも称え来たりし由縁により明治13年7月26日官命により(若栗神社八幡宮)と併称すべき旨示達あり。 若栗神社八幡宮 社務所 社頭掲示板 |
若栗神社 若栗は和加具利と読り、和名抄、(郷名部)若栗、○祭神羽栗臣祖歟○上門眞庄嶋村(一曰大家郷和梨村)に在す、今八幡宮と称す、(府志)○古事記、(孝昭段)天神帯日子命者、羽栗臣之祖也」、日本紀孝安天皇巻、母世襲足姫、尾張連遠祖瀛津世襲之妹也、』姓氏録、(左京皇別下)葉栗臣、和爾部朝臣同祖、彦姥津命三世孫建穴命之後也、同、(山城国皇別)葉栗、小野同祖、彦國膏命之後也、(彦姥津命は天押帯日古命男、彦国膏命は同三世孫也、) 集説云、天武天皇御宇、小乙中葉栗臣人麻呂者、当郡木貫而光明寺本願也、当時有氏人者可知之也、 神位 国内神名帳云、從三位若栗天神、 神社覈録 |