天神神社
てんじんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】穴太部神社 尾張国 葉栗郡鎮座

   【現社名】天神神社
   【住所】岐阜県岐阜市柳津町北塚2-1-1
       北緯35度22分4秒,東経136度44分9秒
   【祭神】菅原道真
   【例祭】10月25日 例大祭
   【社格】
   【由緒】初諸不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】元の鎮座地は現天神神社の南500m柳津村字一色池田
        現在の鎮座地は、元北天神社の境内
        昭和20年穴太部神社と中天神神社が北天神神社に合祀
        昭和31年三社を一ヵ所に合祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「阿加多天神」と称していた
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

羽島北高校の南に鎮座する。
6世紀、聖徳太子が創建した太子寺(現光沢寺)の鎮守として創建されたという。位置は現在の天神神社の南、約500m付近という。
この地に北天神、中天神 阿加多天神(穴太部神社)の三社があった。
現在の鎮座地は、元北天神社の境内である。
昭和31年、三社を一ヵ所に合祀した。
穴太部神社の元の鎮座地は現天神神社の南500m柳津村字一色池田であつたという。


天神神社

金幣社 天神神社由緒
祭神 古天神(天穂日命)
   菅原道真公
例祭 10月25日
神徳 穴太部古天神は縁結びの神で五穀豊穣、商売繁昌、産霊の神として霊験あらたかで信仰者が多い。
   天神社は学徳抜群の神で学問隆盛、出世開運を恵み下さる神として信仰されている。
由緒 元穴太部神社は光沢寺の前身である太子寺の鎮守として聖徳太子の頃創建されたと伝えられ、千年以上の昔から葉栗郡一五座の筆頭神社として崇拝されていた、江戸時代までは光沢寺の管理であったが、明治元年の神仏分離により総氏子の手に移った。
元北天神社は清和天皇の皇子貞純親王の子孫源頼定が緒国武者修行に出てこの地に移り住み、加賀の武士戸田越後守に武道を教えたお礼として戸田家の什宝、沈水香木(白檀)を貰い受け、日頃厚く信仰須する学徳高い道真公の像六体を彫刻し、弘治3年(1557)2月25日六社を建立した内の一社である。
元中天神の鎮座地は柳津村字中宮東であって尾張地名考によれば北天神と共に厚く崇敬された神社である。
昭和20年7月5日 右三社を現在地に合祀し、昭和29年5月神社名を天神神社と改称した。
社務所

社頭石碑




天神神社

人皇第五十六代清和天皇御子眞純親王の後裔源頼上唐音通間自由にして天文10年大明国より来朝せし眞羅軒と問答し、将軍義輝公の感に入り、美濃守に叙せられたる外典博学者なり。其の子頼郷将軍義昭公に属し、永禄11年江州観音城を攻落し勇戦を抽て終に討死せり。一子幼名二郎即ち神社創立者根村次郎左ェ門源頼實幼少につき母方北条氏康引取り養育し、成長の後北条氏を継がしめんと欲す。之に依りて頼實北条家を退出し、亡父の家名を継て浪士となり、諸国武者修行に出て此の地に移る。後加州土戸田越後守に入て武道を授け、帰国の砌同家の什宝なる広東雲南等異国に出づる深水香木長さ二尺一寸五分回り一尺三寸重さ九斤余を所望し、持参頼實は常に道真公の学徳共に抜群なる人として、詩人として天満天神として祀られた偉人として且清和、陽成、光孝、宇多、醍醐の五朝に歴事し無二の忠臣として我国史の上に輝く菅公の為人と崇高純真なる精神を恭敬礼拝し、信仰厚きを以て道真公薨去の延喜3年2月25日を追慕し、沈水香木にて菅神の像六体人皇第百五代後奈良天皇御宇弘治3年2月彫刻霊代となし、同年同月25日六社を建立祭祀せし内の神社にして、爾来本村創立の神と称し、崇敬最も厚き神社なり。祭典は毎年2月25日執行せしも、文化9年に8月25日に改め、その後明治44年に10月25日に変更せり。六社建立当時は恰も戦国時代加ふるに後年洪水の惨害を被ふること屡々なりしため、不幸にして霊代社殿を流失し、遂に其の所在を悉く知るに由なきも、最も信憑すべき口碑に依れば、在昔洪水の際羽島郡足近村大字直道字中島宮前に霊代並びに社殿漂着遂に止まりて動かず、之有縁地ならんとて、同村民は新たに一社を建立祭祀し、爾来崇敬厚き村社北野神社之即ち右六社の内の一社なり。而して其の流失は天明年間以前なりと云ふ。昭和20年11月3日字一色池田107村社穴太郎天神神社、字中宮東1027中天神社を合併。

岐阜県神社庁



菅公と牛の由来

菅公のお生れが丑の日であつて菅公も牛に卸関心か深く御年十五才の元服の夜、白牛が大木に打たれて死んだ夢を見られ、それから其の牛像を描かれて御拝されたということである。
寛平5年(893年)北山に茸狩りをされた時、山中で白い小牛を見つけて愛育されたが、後に配所の大宰府へ流されれる途中、大阪府の「こものや里」で藤原時平の討手が菅公を殺害しようとした時この牛が駆けて来てこの賊を突き殺してお助けしたと伝えられている。
又大宰府で菅公が病死された時御棺を牛に引かせて葬場へ向かう途中、牛が坐つて働かなくなった、そこは丁度菅公が生前お好みになった景勝の地であったので神意であろうと其の地に葬った。
これが安楽寺であり、今の太宰府天満宮の地であるという。
こうした数々の言い伝えから、菅公と牛とが信仰的に結びついたのである。
昭和57年5月

社頭石碑



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