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木曽川の分流である日光川の西100mに鎮座する。 この地に上丸淵、下丸淵の地名があり社名は地名によると思われる。 『火神社』と称されてきた。 「布智神社」を祀る森林を淵森(布智)と呼び、近世火難除の神として知られるに至ったから、天神社を火神社と改めたものであろう。 西門側境内に、径約30m、高さ約2mの周濠をめぐらした墳丘がある。「元宮山」と称し、かってはこの上に社殿があったか。 |
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布智神社 本神社は「延喜式神名帳」所載の式内社で尾張国中島郡30座の内の神社で「本国帳」に従一位布智天神、又、渕天神、渕森天神とある。明治以前は火神大明神、明治以降は火神社と呼び、森下お宮と親しみ敬われている。古来、本神社はこの地方の総社で、国司神拝の記録が残り、鎮火、尚武の神として崇敬は厚く、崇徳天皇の保延年中(1135〜1140)京都に大火がしきりに起こったので、その火難の祈祷を当社に命ぜられた。又、慶長年間(1596〜1614)にも鎮火祭の御祷りの管令を下されたなど由緒ある古社である。 織田信長公は武運長久の祈願をし、清洲城主はしばしば鎮火、尚武の祈願をし社殿の修理や、度々の寄進もされたと伝わる。 社頭掲示板 |
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布智神社の御由緒 鎮座地 稲沢市租父江町本甲宮東4番地(面積2736.92坪) 御祭神 軻遇突智命 由緒 本神社は「延喜式神名帳」所載の式内社で尾張国中島郡三十座の内の神社で「本国帳」に従一位布智天神、又、渕天神、淵森天神とある。明治以前は火神大明神、明治以降に火神社と呼び、森下お宮と親しみ敬われている、古来、本神社はこの地方の総社で、国司神拝の記録が残り、鎮火、尚武の神として崇敬は厚く、崇徳天皇の保延年中(1135〜1140)京都に大火がしきりに起こったので、その火難の祈祷を当社に命せられた。 又、慶長年間(1596〜1614)にも鎮火祭の御祷りの管令を下されたなど由緒ある古社である。 織田信長公は武蓮長久の祈祷をし、清州城主はしばしば鎮火、尚武の祈願をし社殿の修理や、度々の寄進もされたと伝わる。 伝説 火傷したとき、清水を口に含み、「火の神大明神」と三度唱えて水を吹きかけると全治する。また、熱病のときに手水舎の水を飲めば熱は鎮まると伝わる。 更に、大神は、陣頭に立って御剣を振い、また火矢を射放ち敵を降伏させるなど武勇に優れ、武将の崇敬を集めたと伝わる。 また、境内の小高い山は前方後円墳と言われている。 「磐境の石」は古代の石で神社の起源とされており、現在、西の鳥居に一対ある黒っほい石である。 社頭掲示板 |
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布智神社 布智は假字也○祭神群ならず○中庄新冑田村に在す、(府志)今火神と称す、 張州府志云、里俗呼為深森、風土記残編曰、此辺有上丸淵、下丸淵、上森、下森等村名、則是為布智神社明矣、集説以玉野村八劒祠為布智神社者、文献不足徴也、按、此社祠官以田島為氏、疑是熱田祠官田島氏領此邑、氷上明神者田島氏所掌、則遂回深森附曾為氷上、後人謬爲火神、彌失其眞惜哉、また集説、在玉野村以八劒祠爲布智神社不足取と云り、集説に、按、当社祭布都霊、(智與郡音通)布都霊者、往昔尾張氏所崇也、或人曰物部布都久呂大連也、と云へるは例の也、故に府志に從ふ、 神位 国内神名帳云、從一位布智明神、(熱田本作淵森) 神社覈録 |
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郷社 火神社 祭神 軻遇突智 旧と布智神社と称す、創立年代詳ならずといへども、延喜式内社にして、奉唱国帳に從一位と見えさせ給ふ、慶長年中に鎮火祭の御祷など官命を下し給ひておもただしき社なり、」と尾帳名所図会に見えたるが、明治5年5月郷社に列せらる。 社殿は本殿、祭文殿、拝殿等を具備し、境内地1904坪(官有地第・一種)あり、因みに式の布智神社が果して当社なりや否やに就いて参考及集説の説もあれども、張州府志は当社を以て布智神社とせしが、是れ亦大に學者の容るる所となりて、今や定説と見做すべきなり。 明治神社誌料 |