当社を売夫神社に比定する説もある |
天神の渡し 今の日光川が木曽川の本流であった頃、安土桃山時代から江戸時代へと移る頃の美濃路の渡し跡。当天神社と対岸にある尾西市・天神神社との間にあったとされる。この渡しの辺りは萩原川とも云った。天正十四年(1586)の大洪水以降、主要流路が現在のように起の方に移り、萩原川は川幅も狭まって板橋となり、渡しも起側に移った。この間の経緯は、起宿本陣加藤家文書中の天正19年と推定される豊臣秀吉四奉行からの「萩原船頭給継目証文」等によって知られよう。江戸時代終わり頃の「名区小景」には、萩原川に架かる板橋が見える。 織田信長が初めて斉藤道三と冨田・聖徳寺で会見した帰り、道三がこの渡しまで見送ったとも伝えられる。江戸時代には、東海道と中山道とを結ぶ脇往還として美濃路は繁栄し、萩原宿や起宿も賑わいを見せた。徳川家康が関ヶ原の戦いから凱旋して通ったので、御吉例街道とも云われる。 平成15年(2003)10月 建之 一宮市教員委員会。 社頭石碑 |