崇神天皇のとき創立と伝う。 社殿は「石刀古墳」の上に鎮座している。 本来は中島郡四条の位置にあったはずであり、この四条は今伊勢町本神戸のあたりから、宮後、小信中島を経て、羽島市狐穴に至る地域と推定され、このライン上のどこかに石刀社はあったと思われる。(羽島市桑原町の「八剣神社」は当社の旧地と推測され石碑がある。) 南北朝時代にはすでに今寄(現馬寄の地)に移転していた。 平安時代初期の檀林皇后(嵯峨天皇皇后、786年-850年)によって現在地近くに移転したという。ただし、現在地への移転は14世紀ごろ、南北朝時代とも言われている。 旧地は今より西と伝え、西向きに社殿があるのは旧地を望むためといわれている。 「はなれからくり」で有名な石刀祭が毎年4月に行われる。 |
由緒 御祭神 手力雄命外14柱。御祭神は力の神として御神威の強烈なるを以て世に聞こえ、往古から御力をわけ戴いて、事業の成就と開運招福を祈願する近郷武門豪族を始め、氏子崇敬者から深く信仰されて来ました。 御由緒 本社は延喜式内の古社で、社伝によれば崇神天皇の御宇の御鎮座と、伝えられています。当地は木曽川の流れに沿い、尾張国内でも古くから文化の開けたところで、のちの律令による石刀の里は、御社名にちなんで命名されたものといわれます。 御鎮座の地馬寄は往古「今寄の庄」と云い、天慶年間平将門追討の後、奉賽のため伊勢神宮に神戸として貢献せられた処で爾来伊勢との神縁あり、当時郷内に伊勢両宮を斎祀したが、永録年中戦火に遇い社殿を烏有に帰したため、石刀神社の内陣に遷座、以来三明神と尊称、後に享保3年宗源宣旨により、正一位の神階にお進みになられました。 応永年代頃国衙領内に既に所領を有しており、武将豪族の崇敬も篤く、文明18年斯波氏採地を寄せ奉り、降って領主となった織田氏も毎年灯油料を寄進致しました慶長年間関ヶ原の戦いに際し、此地に関東の陣営を布く処となり、社殿建造物を荒廃させたため、関東の勝捷後徳川氏の命により、奉行吉田伊豆守修復御造営の事に当たり、以後尾張徳川家の尊崇を受け面目を一新しました。 当地、地頭武藤氏の代々の崇敬は今も尚語り伝えられて、一般近郷隣甫の諸人の崇敬をあつめて今日に至りました。 御宝物中には、全国臨時宝物取調局登録状の交付を受けた、鎌倉時代前後の作と推定される狛犬等の彫刻を始め、古文書其他往昔を偲ばせる品を蔵しています。内、経筒.釣燈籠.懸佛.祭礼用山車は一宮市文化財に指定されています。 昭和15年県社に列格。御祭礼、例祭、4月19日斎行、毎年4月19日以降の最初の日曜日に、山車三輌、献馬6頭を各町内から意匠をこらして曳き出されます。まつりの中心となる頭人は其の古い慣例がそのまま伝えられており、世に広く石刀祭とよばれています。関ヶ原の戦いの後、前述の徳川氏の命による御社殿の修復、御造営にあたり、その奉祝のため慶長13年に伊奈備前守に願出で、山車、献馬を奉納したのが其の始めといわれる。戦前は5台の山車が戦災により2台を失い、3台が献馬と共に巡行し「おはやし」「人形からくり」を御社前に奉納します。山車は三層よりなり、上層のからくり人形は「はなれからくり」で他に類例をみないものであります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
石刀神杜 愛知県一宮市今伊勢町馬寄鋲座 御祭神 手力雄命 相殿 天照大神外四桂 御祭神は力の神として御神徳高く徒古から事業の成就を所願する近郷武門豪族を始め氏子崇敬者から尊崇されて来ました。 御由緒 本杜は延喜式内の古社で杜伝によれぼ人皇十代崇神天皇の御宇御鎮座と伝えられています。御鎮座の地馬寄は往古今寄の庄と云い、天慶年度平將門追討の後奉餐のため伊勢神宮に神戸として貢献せられた処で第三回目の封戸であります。爾来伊勢との神縁あり当時郷内に伊勢両宮を斎祀したが永録年中戦火に遇い杜殿を烏有に帰したため石刀神社の内陣に遷座以来三明神と尊称、後に享保3年神砥管領に奏上して宗源宣旨により正一位の神階にお進みになられました。 武將豪族の崇敬も篤く文明十八年斯波氏採地を寄せ奉り降つて領主となった織田氏も毎年灯油料を寄進致しました。 慶長年問関ケ原の戦いに際し、此地に関東の陣営を布く処となり社殿建造物を廃潰したため関東の勝捷の後徳川氏の命により奉行吉田伊豆守修覆御造営の事に当り以後尾張徳川家の尊崇を受け面目を一新しました。 当地、地頭武藤氏代々の崇敬は今も尚語り伝えられ、一般近郷隣甫の諸人の尊敬をあつめて今日に至りました。 御宝物中には全国臨時宝物取調局登録状の交付を受けた鎌倉時代前後の作と推定される狛犬等の彫刻を始め往昔を偲ばせる品を藏しています。 昭和15年県社に列格 御祭礼 御例祭は4月19日に斎行 古い伝統を有する山車は戦災により二両を失いましたが現在尚三両を存しており各町内から意匠をこらして献馬と共に氏子の奉仕により奉納されます。 まつりの中心となって神社に参向する頭人(とうにん)は其の古い慣例がそのまま伝えられていることで尾張地方では珍らしい例と言われます。 由緒書 |
石刀神杜 愛知県一宮市今伊勢町馬寄鎮座 御祭神 手力雄命 外十四座 例祭日 4月19日 本社は延喜式内の古社で社伝によれば人皇第十代崇神天皇の御宇御鎮座と伝えられています。 当地馬寄は往古今寄の庄と云い天慶年度平将門追討の後伊勢神宮に神戸として貢献さられた所で郷内に伊勢両宮を斎祀したが戦火に遭い石刀神社に遷座後に享保3年宗源宣旨により三明神と尊称し正一位の神階にお進みになられました。 御祭神は力の神として御神徳高く古くから事業の成就を祈願する武門豪族氏子崇敬者から尊崇されてきました。 社頭掲示板 |
石刀神杜 市指定文化財 石刀神社蔵 石刀神社祭礼用山車 三輌 山車の形式は三輌とも屋台式で、上層はからくり演出場、中層は前面に采を持つた木偶を設置、下層は囃子場の木造三層からなる。車輪ば欅材の寄木造りで、鉄の轍がはめてある。 大聖車 明和9年(1772)改造 総高8.3m からくり演出・綾渡り 中屋敷車 江戸時代と推定 総高8.8m からくり演出・大車輪 山之小路車 製作年代不詳 総高8.6m からくり演出・逆立ち 昭和52年3月23日指定 一宮市教育委員会 社頭掲示板 |
石刀祭 開催予定:4月19日以降の最初の日曜日 会場:石刀神社(今伊勢町馬寄) 関ヶ原の合戦の際、徳川氏が今伊勢町馬寄の石刀神社境内に陣を敷いたため、社殿等が壊され石刀神社は一時荒廃しましたが、合戦の後、徳川氏の命により修復造営がなされました。石刀祭はその奉祝として山車・献馬を奉納したのが始まりとされています。 現在、例祭の神事は毎年4月19日に行われ、これ以後の最初の日曜日に山車からくりと献馬が奉納されています。かつて山車は5両ありましたが、戦災によって2両が消失し、現在はいずれも市指定有形民俗文化財となっている大聖車、中屋敷車、山之小路車の3両がからくり奉納を行っています。 山車の形式は、上層・中層・下層の3層からなっており、欄間の装飾が異なるほかは同じような屋台の形式です。3両とも、中層前面に采を持った人形(三番叟と称される)があって、下層は囃子場、上層はからくり演出場となっています。からくりは、大聖車が「唐子の綾渡り」、中屋敷車が「唐子の大車輪」、山之小路車が「蓮台倒立などの倒立芸」で、すべて離れからくりです。 石刀祭当日、各町内から曳き出された山車は、大聖車・中屋敷車・山之小路車の順に参道の所定の位置に置かれます。午後2時に献馬6頭が西大門に出揃い、3両の山車が同時にからくりを始めるころになると、参道は大勢の見物人で埋め尽くされます。2時半に献馬が境内へ参入すると、それに続いて山車が囃子に合わせてゆっくりと動きだし、境内へ入った山車は、3時半ごろから大聖車・中屋敷車・山之小路車の順にからくりを奉納します。笛太鼓の音も一際高く聞こえて、見守る人達の間から喚声があがります。5時半、「献馬吉田のかけぬき」で祭りは終了します。 各地で共同体意識が薄れつつある現在、石刀祭は昔の面影を今に残す代表的な祭りと言うことができます。 一宮市HP |
石刀神社祭礼用山車 一宮市指定文化財 有形民俗 石刀神社祭礼用山車 三輌 石刀神社山車保存会 昭和52年3月23日指定 石刀祭は毎年4月19日に行われる祭礼で、現在4月19日に頭人行事を含む例祭を、その後の日曜日に山車奉納と献馬を行っている。山車奉納の祭礼が盛んな愛知県内にあって、頭人行事が残存する唯一の祭礼である。 大聖車・山之小路車・中屋敷車の犬山型の山車三輌があり、それぞれ「綾渡り」「大車輪」「蓮台倒立他」を演じるからくり人形が乗っている。文献の記述から、17世紀初頭に大聖車・更屋敷車の二輌で始まった山車奉納は、後に呑光寺車・中屋敷車・山之小路車の三輌を加え五輌となり、第二次世界大戦の際の空襲で更屋敷車・呑光寺車二輌が焼失し現在に至っていることがわかっている。 大聖車についてば慶長13年(1608)制作という伝承があり、屋根の妻壁板には「大工 下本町 治郎七 木之下 忠久 貼物師本町 千治 塗師 弥兵衛 文蔵 壬 明和九年」という銘も残っている。 大聖車総高8.3m、中屋敷車総高8.8m、山之小路車総高8.6m。 一宮市教育委員会 社頭掲示板 |
石刀祭 愛知県指定文化財 無形民俗 石刀祭 令和元年8月6日指定 石刀まつり山車保存会 石刀祭は頭人行事、献馬、からくり人形を操る山車の三つの要素で構成されている。石刀神社所蔵の古文書などには、江戸時代から著名な祭りであり、祭礼日は8月19日てあったことが記されている。近代になって祭礼日が4月19日に変更され、さらに昭和末期から現在のように4月19日に頭人行事と例祭が、その後の日曜日に献馬と山車行事が行われるようになった。 頭人を出す家を当元といい、大聖瀬古から選ばれ、順番も決まっている。祭礼に関わって供されるものはすべて当元が負担していたが、平成21年以降は、お神酒、供え物のみ当元の負担となり、頭人の負担を経減しつつ継承されている。その一方で、頭人が決定すると祭事の配役を記して通知をし、次第にあたる文書で「差口」が公民館内に張り出され、頭人宅の玄関には注連縄が張られるなど、なお古様な伝承も認められる。 献馬と、からくり人形が付随する山車は愛知県、特に尾張を代表する祭礼行事であるが、この両者が併存しているのは稀であり、さらに頭人行事が山車行事と共にあるのは県下では極めて稀で、石刀祭の最大の特徴である。このような特徴は古様な様式を残していることと無関係ではないと考えられ、愛知県あるいは中京圏下に展開している祭礼文化の変遷過程を知るうえで貴重な資料を提供するものである。 石刀祭は、古様な一面を残しつつ、その一方て祭化行事の担い手は現代にも受け入れられやすいように周到に組織化さており、各地で共同体意識が薄れつつある現在において、昔の面影を今に残す貴重な祭礼である。 一宮市教育委員会 社頭掲示板 |