裳咋神社
もくいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】裳咋神社 尾張国 中島郡鎮座

   【現社名】裳咋神社
   【住所】愛知県稲沢市目比町天神東 1244
       北緯35度12分38秒,東経136度45分58秒
   【祭神】裳咋臣船主
       『尾張志』『特選神名牒』裳咋臣得麿がその祖神を祭る
       『尾張名所図会後編』裳咋臣・敢臣等が祖先の神を祭る

       裳咋臣敢臣等が祖神を祠った社であると思われる

   【例祭】10月15日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       中古に同村の安養寺境内(現地南500m)にあつた
       文政の末、裳咋天神を村北の旧地(現地)に遷した。
       明治4年郷社

   【関係氏族】裳咋臣
   【鎮座地】現地は本来の地か
        中古に同村の安養寺境内(現地南500m)にあつた
        文政の末、裳咋天神を村北の旧地(現地)に遷した。

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「八龍社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】天王宮

坂田小学校の東、目比(むくい)川に平行の道路東脇に鎮座している。
中島郡の豪族裳咋臣等の奉賽した神社で社名もそれによる。
太古、この辺りは大沼を取り囲む水田があり、田船で往来する水郷地帯であった。
大沼には葦がいっぱい生え水鳥が藻を食べていた。
これより藻咋(もぐい)という。
中古に同村の安養寺境内(現地南500m)にあつて八龍社と伝称して来た。
文政の末、裳咋天神を村北の旧地(現地)に遷した。
式内裳咋神社にはいわゆる論社はないが、『新編一宮市史・本文編上』は、有力な比定地として、稻沢市裳咋とともに、一宮市目久井を挙げている。なお、目久井には神社はない。
当社の鎮座する辺りは大きな沼があったとされる地区で、水鳥たちが集まってきて藻を食べていたので、藻喰(もくい)、すなわち裳咋となったということである。


裳咋神社

裳咋は毛久比と訓べし〇國衙庄目比村安養寺境内に在す、然其旧地在寺北、俗称天龍社(集説)
神位
國内神名帳云、從三位裳咋天神、
氏人
続日本紀、天応元年5月丁亥、尾張国中嶋郡人外正八位上裳咋臣船主言、己等與伊賀國敢臣同祖也、是以会祖宇奈以上皆為敢臣、而祖父得麻呂、庚午年籍謬從母姓、爲裳咋臣、伏望欲蒙改正、於是船主等八人賜姓敢臣、

神社覈録



郷社 裳咋神社

祭神 裳咋臣船主命
創立年代詳ならず、但延喜式内社にして、奉唱国内神名帳に「從三位裳咋天神、」と見え、参考に「天神、一本作正四位下、今在目比村安養寺境内、然旧地存寺之北、俗称八龍祠、」と見え尾張志に「森の内にいます、祠は廃れたるを、近き頃造立せり、」と見えたり、維新以前は安餐寺に於いて支配せるが、明治5年5月郷社に列せられたり。
社殿は一宇にして、境内地390坪(官有地第二種)あり、因みに祭神裳咋臣船主は続日本紀に見えたり、
即ち、
「天応元年5月丁亥、尾張國中島郡人外正八位上裳咋臣舶主言、己等與伊賀國敢臣同祖也、是以曾祖宇奈以上、皆為敢臣、而組父得廠呂、庚午年、籍謬從母姓、為裳咋臣、伏望欲蒙改正、於是船主等八人、賜姓敢臣、」

明治神社誌料



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