坂田小学校の東、目比(むくい)川に平行の道路東脇に鎮座している。 中島郡の豪族裳咋臣等の奉賽した神社で社名もそれによる。 太古、この辺りは大沼を取り囲む水田があり、田船で往来する水郷地帯であった。 大沼には葦がいっぱい生え水鳥が藻を食べていた。 これより藻咋(もぐい)という。 中古に同村の安養寺境内(現地南500m)にあつて八龍社と伝称して来た。 文政の末、裳咋天神を村北の旧地(現地)に遷した。 式内裳咋神社にはいわゆる論社はないが、『新編一宮市史・本文編上』は、有力な比定地として、稻沢市裳咋とともに、一宮市目久井を挙げている。なお、目久井には神社はない。 当社の鎮座する辺りは大きな沼があったとされる地区で、水鳥たちが集まってきて藻を食べていたので、藻喰(もくい)、すなわち裳咋となったということである。 |
裳咋神社 裳咋は毛久比と訓べし〇國衙庄目比村安養寺境内に在す、然其旧地在寺北、俗称天龍社(集説) 神位 國内神名帳云、從三位裳咋天神、 氏人 続日本紀、天応元年5月丁亥、尾張国中嶋郡人外正八位上裳咋臣船主言、己等與伊賀國敢臣同祖也、是以会祖宇奈以上皆為敢臣、而祖父得麻呂、庚午年籍謬從母姓、爲裳咋臣、伏望欲蒙改正、於是船主等八人賜姓敢臣、 神社覈録 |
郷社 裳咋神社 祭神 裳咋臣船主命 創立年代詳ならず、但延喜式内社にして、奉唱国内神名帳に「從三位裳咋天神、」と見え、参考に「天神、一本作正四位下、今在目比村安養寺境内、然旧地存寺之北、俗称八龍祠、」と見え尾張志に「森の内にいます、祠は廃れたるを、近き頃造立せり、」と見えたり、維新以前は安餐寺に於いて支配せるが、明治5年5月郷社に列せられたり。 社殿は一宇にして、境内地390坪(官有地第二種)あり、因みに祭神裳咋臣船主は続日本紀に見えたり、 即ち、 「天応元年5月丁亥、尾張國中島郡人外正八位上裳咋臣舶主言、己等與伊賀國敢臣同祖也、是以曾祖宇奈以上、皆為敢臣、而組父得廠呂、庚午年、籍謬從母姓、為裳咋臣、伏望欲蒙改正、於是船主等八人、賜姓敢臣、」 明治神社誌料 |