神守小学校の北東、吉祥寺と同一境内に鎮座する。 御祭神も、「お神」としか伝わらない。 憶感山吉祥寺(眞言宗)は、当社の別当といい、江戸期は社僧が奉仕したという。 古の社地はここより二町(約200m)ばかり北の方という、深田の中に「八龍お亀宮」という宮地があった。おかめは「おかみ」のことと思われる。 正保4(1647)年佐屋街道神守宿開設に伴う集落移転によって慶安元(1648)年現在の地に移った。 洪水によって現地へ移転と云われている。 戦国時代、一向一揆のため古文署等は消失という。 |
憶感神社 憶感は於加牟と読り○祭神詳ならず○海東郡中切庄神守村に在す、(集説) 考証、集説共に、姓民録云、島田臣、神八井耳命之後也、五世孫武恵賀前命孫神臣子上、稚足彦天皇(諡成務)御代、尾張国島田上下二縣有悪神、遣子上平服之、復命之日賜號島田臣也、和名鈔尾張國海部郡島田、とあるを引て、按憶感與子上訓近通、と云て子上をヲカミとよみ、仲臣子上を祭るよしにいへるはいかがあらん、信がたきこゝちす、猶考ふべし、 神位 官社 文徳実録、仁寿3年6月丁卯、以尾張国憶感神、列於官社、三代実録、貞観7年11月17日甲午、授尾張国從五位下憶感神從五位上、国内神名帳、正一位憶感名神、 神社覈録 |
郷社 憶感神社 祭神 寵神 創立年代詳ならずといへども、当社は式内社にして、文徳實録に、仁寿3年癸酉6月列於官社」と見え。三代實録に「貞観7年乙酉11月、授尾帳國憶感神從五位上、」奉唱國内神名帳に、「從二位憶感名神参考国内神名帳に「正一位憶感神社、名神、一本作從三位、式無名神之號、中切庄神守村」といへり、尾張志に「憶感は式内社にて云々、今神守村吉祥寺を憶感山と呼ぶにて。此寺は昔の大社の別当なりしを知るのみ」と記せるが如く、往古は國内有数の大社なりしなるべし、明治元年9月、御東幸の際勅使参向せられ奉幣のことあり、明治5年5月郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、祭文殿、社務所等を具備し、境内地313坪、内117坪は官有地第一種他は民有地第二種たり、因みに当社々名に付き、集説は姓氏録の島田臣、神八井耳命之後也、五世孫武恵賀前命孫仲臣子上、稚足天皇御代尾張國島田上下二縣有悪神、遣子上平服之、復命之日賜号島田臣とある子上と関係ありやとて、」按憶感輿子上音訓近通」といひしが、伴氏神名帳考証は、更に之れを敷衍して、 信友按、この説につきて考ふるに、憶感は大かむ、子上は子かむにて、憶感は子上の父兄などにもやあらむ、其を子上が氏神と祀れるなるべし、なほ可考、」 といへり、神社覈録は「いかがあらん、信がたきこゝちす、猶考ふべし」といへるが、神社志料は平生に似ず、斯の如き説に毫も耳を假さすして社説に依り「蓋淤加美神を祭る」といひ、「按、憶感は即淤迦美の音を借たるなり」と断ぜられたり。 明治神社誌料 |