憶感神社
おかんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】憶感神社 尾張国 海部郡鎮座

   【現社名】憶感神社
   【住所】愛知県津島市神守町上町 36
       北緯35度10分40秒,東経136度46分22秒
   【祭神】お神
       『考証』『参考本国神名帳集論』仲臣子上
       『式社考』『神名帳集論訂考』おかみ神

       諸説を総覧すると寵神・お迦美神が祭神として有力と言える。

   【例祭】9月16日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】仁寿3年(853)6月8日官社に列す
       貞観7年(865)11月17日従五位上(三代実録)
       文治2年(1186)従二位
       明治元年9月26日明治天皇御東幸の際、勅使参向
       同5年5月郷社
       同42年9月1日神饌幣帛料供進社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古の社地はここより二町(約200m)ばかり北
        正保4年(1647)現在地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八竜権現」と称していた
   【社殿】本殿八幡造銅板葺
       祭文殿・拝殿・渡殿・手水舎

   【境内社】神白社

神守小学校の北東、吉祥寺と同一境内に鎮座する。
御祭神も、「お神」としか伝わらない。
憶感山吉祥寺(眞言宗)は、当社の別当といい、江戸期は社僧が奉仕したという。
古の社地はここより二町(約200m)ばかり北の方という、深田の中に「八龍お亀宮」という宮地があった。おかめは「おかみ」のことと思われる。
正保4(1647)年佐屋街道神守宿開設に伴う集落移転によって慶安元(1648)年現在の地に移った。
洪水によって現地へ移転と云われている。
戦国時代、一向一揆のため古文署等は消失という。


憶感神社

憶感は於加牟と読り○祭神詳ならず○海東郡中切庄神守村に在す、(集説)
考証、集説共に、姓民録云、島田臣、神八井耳命之後也、五世孫武恵賀前命孫神臣子上、稚足彦天皇(諡成務)御代、尾張国島田上下二縣有悪神、遣子上平服之、復命之日賜號島田臣也、和名鈔尾張國海部郡島田、とあるを引て、按憶感與子上訓近通、と云て子上をヲカミとよみ、仲臣子上を祭るよしにいへるはいかがあらん、信がたきこゝちす、猶考ふべし、
神位 官社
文徳実録、仁寿3年6月丁卯、以尾張国憶感神、列於官社、三代実録、貞観7年11月17日甲午、授尾張国從五位下憶感神從五位上、国内神名帳、正一位憶感名神、

神社覈録



郷社 憶感神社

祭神 寵神 創立年代詳ならずといへども、当社は式内社にして、文徳實録に、仁寿3年癸酉6月列於官社」と見え。三代實録に「貞観7年乙酉11月、授尾帳國憶感神從五位上、」奉唱國内神名帳に、「從二位憶感名神参考国内神名帳に「正一位憶感神社、名神、一本作從三位、式無名神之號、中切庄神守村」といへり、尾張志に「憶感は式内社にて云々、今神守村吉祥寺を憶感山と呼ぶにて。此寺は昔の大社の別当なりしを知るのみ」と記せるが如く、往古は國内有数の大社なりしなるべし、明治元年9月、御東幸の際勅使参向せられ奉幣のことあり、明治5年5月郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿、祭文殿、社務所等を具備し、境内地313坪、内117坪は官有地第一種他は民有地第二種たり、因みに当社々名に付き、集説は姓氏録の島田臣、神八井耳命之後也、五世孫武恵賀前命孫仲臣子上、稚足天皇御代尾張國島田上下二縣有悪神、遣子上平服之、復命之日賜号島田臣とある子上と関係ありやとて、」按憶感輿子上音訓近通」といひしが、伴氏神名帳考証は、更に之れを敷衍して、
信友按、この説につきて考ふるに、憶感は大かむ、子上は子かむにて、憶感は子上の父兄などにもやあらむ、其を子上が氏神と祀れるなるべし、なほ可考、」
といへり、神社覈録は「いかがあらん、信がたきこゝちす、猶考ふべし」といへるが、神社志料は平生に似ず、斯の如き説に毫も耳を假さすして社説に依り「蓋淤加美神を祭る」といひ、「按、憶感は即淤迦美の音を借たるなり」と断ぜられたり。

明治神社誌料



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