三宅川西岸に接している。 この地は「間敷屯倉」が置かれた地であり、すぐ北の伊久波瀬古から遷座と伝えている。 社名は的の古語をイクハと呼ぶことに由来する。 古代に三宅の地で百手神事が行われ豊作の豊凶を占ったといわれる。 |
伊久波神社の祭神・由緒 祭神 的臣祖(いくはのおみのおや)菊理姫命(くくりひめのみこと) 由緒 本神社は、廷喜式・神名帳(927年)に尾張国121座・海部郡8座のうちの一座「伊久波神社」と記載されている式内社である。 祭神は、武内宿根の子・葛城襲津彦命の子孫である的臣等が祀った祖神。 的氏は、的の製作や的を射通す武芸、軍事的な職掌に携わり、軍事を持って朝廷に仕え、大化以前には大王の側近や朝廷の警護にあたったといわれる。 古来、尚武の神として、広く尊崇され、織田信長公が使臣を派遣して戦勝を祈願した神社、又、犬山藩も厚く崇敬した神杜と伝えられている。 大正2年3月15日白山社を合祀する。 社頭掲示板 |
伊久波神社 伊久波は假字也○祭神的臣祖歟〇日本紀、仁徳天皇12年8月庚子朔己酉、的臣祖盾人宿禰、射鐡的通焉、明日美盾人宿禰、而賜名曰的戸田宿禰、」姓氏録、(山城國皇別)的臣、石川朝臣同祖、彦太忍信命三世孫葛城襲津彦命之後也、また、(河内国皇別)的臣、道守朝臣同祖、武内宿繭男葛城曾都比古命之後也、また、(和泉國皇別)的臣、坂本朝臣同祖、武内宿禰男葛城襲津彦命之後也、 考証云、葛城襲津彦命、類聚国史云、天長9年尾張國海部人山口忌寸刀自売、按山口朝臣、武内宿禰之後也、』集説云、類聚国史曰、云々、(同前)当國海部郡同祖氏人多矣、後世紀之高住中島郡堀田村、其男右衛門佐正泰移居海部郡津島、建姓祖武内宿禰之祠者、尤有故、 連胤按ずるに、然らば武内宿禰なるべし、襲津彦にはあらず、其故は姓氏録、(河内國皇別)山口朝臣、道守朝臣同祖、武内宿禰之後也、また、(和泉国皇別)道守朝臣、波多朝臣同祖、武内宿禰男八多八代宿禰之後也、とあれば元祖武内宿禰ならでは合ひがたし、 神位 國内神名帳云、從三位生桑天神、 神社覈録 |