日置八幡社
へきはちまんしゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】由乃伎神社 尾張国 海部郡鎮座

   【現社名】日置八幡社
   【住所】愛知県愛西市日置本郷94
       北緯35度9分51秒,東経136度43分55秒
   【祭神】応神天皇 (配祀)神功皇后 玉依媛命
   【例祭】10月11日 例祭
   【社格】
   【由緒】養和元年(1181)現在地に創建

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

光明院の由緒に「当社は養和元年(1181)源頼朝公大檀主として海部郡日置荘の本所なる日置村に八幡宮を鎮座する。同社の別当光明院を創建する」とある。社宝には明応2年(1493)銘懸仏と享徳3年(1454)銘獅子頭などがある。
尾張藩撰の『張州府志』は日置村の八幡祠(当社)を由乃伎神社に比定している。


由緒

日置八幡社由緒概略
御祭神応神天皇
相殿神功皇后相殿玉依媛命
当社は、御祭神応神天皇、相殿神功皇后、玉依媛命をお祀りし養和元年現在地に創建せられたる古社にして、古くは若宮八幡宮と称せり。抑もこの里は昔日置庄(現在の海部郡西南部一円)の本郷なりしが、鎌倉将軍源頼朝公よりこの日置庄を京都六条左女牛八幡宮 (現在の若宮八幡宮)に寄進せられたり。この日置庄が六条左女牛八幡宮の所領となりしにより、別當季嚴の計により源頼朝公大檀主として日置庄の本処たる日置村に八幡宮を鎮座し、御分霊を勧請奉祀せる御社なり。東鑑云「尾張国日置豫被奉寄左女牛若宮一事己上可為別當季嚴阿闍梨沙汰之由被仰下」鎌倉時代、當社別當光明院開基明恵上人高辯を初め代々の法印厚く當社を尊崇し時には社殿造営の願主となり、或は修理に尽力奉仕せられし等挙げて数う可からずとあり。徳川時代に至り、堀田相模守紀正成、先祖日置村出生にして氏神たるの儀をもって、延享元年大阪御城代として當社へ来拜し永々祈祷のこと命ぜられ、その後も両参度にわたり守護符を呈し来りし等特に崇敬厚く、社殿再建には多額の資を寄せられ社殿の瓦等木端の金具に堀田氏の定紋を遺せりとある。その他、御神威顕著なるにより、往昔より公武一般広く社参する者数知れずとの由。昔は、社前大門長さ百六十間、巾十間、その境内社地も宏壮なりとある。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




日置八幡宮

旧郷社 日置八幡宮の由緒
御祭神 応神天皇(天皇家第15代)神功皇后 玉依媛命

当八幡宮は、古くは若宮八幡宮と称せり。平安時代末期養和元年(1181)現在地に創建せられたる古社である。
抑も、この日置の里は昔日置庄(海部郡西南部一円)と呼ばれ宏大な面積を占めていたその本郷なり、鎌倉将軍源頼朝公よりこの日置荘園を京都六粂左女牛八幡宮(現在の若宮八幡宮)に寄進された由、その縁に依リこの日置の里に産土の氏神様として若宮八幡宮の御分霊を勧請され今日に至るまで氏子崇敬者により護持崇敬されており、又古より宏大なる境内地を所有し鎌倉時代より江戸時代までは流鏑馬神事が盛大に行われていた。
明治時代以降は武人の神様としてさらに御神威が嵩まり出征兵士が社参され必勝祈願されていた格式の高い神社であった。
注 流鏑馬神事馬に乗り走りながらかぶら矢で的を射た。
宝物
十一面観音菩薩鏡 明応2年(1493年室町時代中期)
獅子頭 建長4年壬子8月(1252年鎌倉時代初期)(日本最古の作)
主な祭儀
一、例大祭10月(神社庁より献幣使参向する)

社頭掲示板



指定文化財

市指定文化財
懸仏
直径が64.3cmもあるこの懸仏は中央に十一面観音菩薩の像があり、右に「日置庄明応二癸丑歳」左に「八幅宮九月廿八日」の銘があり,明応2年(1493)に制作されたことがわかります。
市指定支化財
管粥
旧正月15日に日置八幡宮で行われる「管の粥」神事。これは大鍋にヨシでつくった管を入れて、赤飯と一緒に炊き、管の中に入った米粒の量でその年の豊凶を占う行事で、古くから今日まで続いています。
市指定文化財
日置八幡宮木造獅子頭
日置八幡宮の木造獅子頭は、平成19年度の修復調査によって、上顎部から建長4年(1252)銘が確認され、同年に創作され、享徳3年(1454)に下顎部補修されたことがわかりました。年記銘のあるものとしては国内最古の獅子頭です。
愛西市教育委員会

社頭掲示板



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