天武元年に宮殿が建てられたという。現地東方750mに石塚の地名があり巨石ががあり旧地と伝うが、現在巨石は民家の庭石に利用されたといわれ現地には認められない。 祭神は尾張氏の祖、天火明命の裔、葛城襲津彦命4世の孫と伝う |
由緒 飛鳥時代の白鳳元年(673)この地方開拓の神様邑上足尼命(うがたりにのみこと)をお祭りしました。八開村で一番古い神社(延喜式内社)です。慶安2年(1649)杉原治兵衛尉が木曽清流の此処に再興しました。御本殿は文久2年(1862)新築されました。明治5年5月郷社に列格、同40年10月神饌幣帛料供進の郷社に指定を受け、県知事代理、または部長、または村長が大祭日に参向しました。昭和21年現在の制度になりました。郷土史(尾張誌 地名考 名所図絵など)八開村史に神社のことが詳しく書いてあります。俗に鵜多須白鬚大明神と敬い特に延命長寿を祈願しました。例祭日にお釜の湯で厄祓い、お宮西の川原で田舎競馬があって参拝者で賑やかでした。俳句の奉納も大正頃まで盛んに行われました。」 社頭掲示板 |
宇太志神社 宇太志は假字也○祭神詳ならず○海西郡富安庄鵜多須村に在す、今白鬚大明神と称す、(府志)○民都省国帳云、天武天皇元年壬申12月、建宮殿、爾來及寛治2年戊辰加再復、神境十一園云々 考証、集説共に、三河國宝欲郡菟足神社同神、と云るは例の推当なれば從はず、 神位 國内神名帳云、從三位宇太志天神、 神田 民部省図帳云、國津宇多志明神、神田三十八束有余、 神社覈録 |
郷社 宇多志神社 祭神 足尼命 旧と俗に白髪大明神と称し、又尾張名勝志に鵜多須大明神とも称せり、創立年代詳ならず、然るに当社の伝に、創立天武帝白鳳元壬申12月」と見えたり、蓋是れ偽書、民部省図帳に「國津宇多大明神、神田三十八束有余、天武天皇元年壬申12月建宮殿、爾来及寛治2年戊卯加再復、神境十一囲云々」と見えたるものにして、固より信証しがきは論を俟たず、但当社は古社にして、既に延喜式神名帳に、「宇太志神社」と見え、奉唱國内神名帳に、「從三位宇多須天神」、参考に「從三位宇太志神社、天神、一本作正四位上宇太須」と見えたり、古来当所の氏神にして、明治5年5月郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、祈祷所等を具備し、境内地1256坪(官有地第一種)外に91坪(官有地第一種)あり、社殿棟上に菊の御紋あり、境内は木曾川の分流佐屋川に沿ひ、西方は白沙青松一帯の山をなし、南北は畑耕地、東は佐屋川の堤防にして、其の細流回りて鳥居前に來て御手洗川をなす、祠後老樹細竹森然として叢をなし、社前には多く桜、楓を植う、春は士女相携へて香雲の間に梢祥し、秋は角巾野服の騒人等昂を曳き、二月の花よりも紅るなる霜林の晩に車を停む。 明治神社誌料 |