藤島神社
ふじしまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】藤島神社 尾張国 海部郡鎮座

   【現社名】藤島神社
   【住所】愛知県あま市七宝町秋竹柏田 509
       北緯35度10分26秒,東経136度48分21秒
   【祭神】市杵島姫命
       『考証』埴安神
       『特選神名牒』『明治神社誌料』『愛知県史』市杵島姫命
       『神社覈録』祭神不詳

       尾張の海人族が海上交通の神市杵島姫命を当地に奉齋した。

   【例祭】4月第1日曜日 春季大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天武天皇白鳳4年創立という
       文治2年(1186)従三位
       明治元年9月明治天皇御東幸の途次勅使参向
       同5年5月郷社
       同40年10月26日神饌幣帛料供進社
       大正10年5月20日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来よりこの地に鎮座とされる

   【祭祀対象】島
   【祭祀】江戸時代は「藤島天神」と称していた
   【社殿】八幡造銅板葺
       祭文殿・拝殿・手水舎、社務所、記念館

   【境内社】秋葉社

蟹江川支流と福田川の中間を北上する県道139号の道沿い東に鎮座する。
天武天皇の白鳳4年(676)の創建と伝えられる。
太古の昔、この一帯は洋々たる蒼海にして、所々に州が点在し、其の1つが藤島であったと伝えられている。
尾張の海人族が海上交通の神市杵島姫命を当地に奉斎したのではないか。


由緒

当神社は、愛知県海部郡七宝町大字秋竹字柏田に鎮座し、延喜式尾張121座の1社に列せられ、天武天皇の白鳳4年(676)の創建と伝えられ、千三百有余年の歴史を有する古社である。
伝説によれば太古の昔、此の辺一帯は洋々たる蒼海にして、所々に州が点在し、其の1つが藤島であったと伝えられ、古くは此の地を藤島と呼んでいた。
織田、豊臣時代の頃には藩士等の崇敬篤く、徳川時代の頃中沢百太郎など七勇士が当神社を殊の他尊崇し、その勢力を強固にしていった。明治元年、明治天皇東京遷都に際し、植松少将勅使として当神社に参向し、金幣を奉ぜられた。大正10年県社に列せられたが、戦後は社格廃止とともに宗教法人藤嶋神社として新たなる歩みをするところとなった。そこで逸早く氏子を始めとして、御神徳を景仰する崇敬者などによって奉賛会を結成し、社殿その他の改修工事が行なわれ、今や広大無辺な御神徳を慕う人々は遂年その数を増している。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




藤島神社由緒略記

御祭神 市許嶋姫命
祭典
元旦祭 1月1日
春季例大祭 4月第一日曜日
秋季例大祭 10月第一日曜日
七五三 11月15日
勤労感謝祭 11月23日(勤労感謝の日)
大祓式 12月31日
御祈祷 (常時執り行なつています)
安産祈祷
虫封じ祈祷
交通安全祈祷(車祓)
進学祈願
厄除祈願(男25才・42才・女19才・33才)
誕生祭
病気平癒祈願その他
由緒
当神社は愛知県海部郡七宝町大字秋竹字柏田に鎮座し、延喜式尾張121座の一杜に列せられ、天武天皇の白鳳4年(676)の創建と伝えられ、1300有余年の歴史を有する古社である。
伝説によれば太古の昔、此の辺一帯は洋々たる蒼海にして、所々に州が点在し、其の一つが藤嶋であったと伝えられ、古くは此の地を藤嶋と呼んでいた。
織田、豊臣時代の頃には藩士等の崇敬篤く、徳川時代の頃中沢百太郎など七勇士が当神社を殊の他尊崇し、その勢力を強固にしていった。
明治元年、明治天皇東京遷都に際し、植松少将勅使として当神杜に参向し、金幣を奉ぜられた。
大正10年県杜に列せられたが、戦後は社格廃止とともに宗教法人藤嶋神社として新たなる歩みをするところとなった。そこで逸早く氏子を始めとして、御神徳を景仰する崇敬者などによって奉賛会を結成し、杜殿その他の改修工事が行なわれ、今や広大無辺な御神徳を慕う人々は遂年その数を増している。
御神徳
当神杜は古来特に安産、虫封じの御神徳高く、各地より多くの参拝者が訪れている。
安産を祈願する妊婦は祈祷の後、当神社境内の木の葉と清砂を戴いて、産室に斎置すれば必ずや安産すると言い伝えられている。
亦、出生する男女性別を占うときは、境内の落葉を両眼を閉じて拾い、その表裏により占断する。即ち裏の場合は男、表の場合は女とされ、その霊占はあらたかである。

由緒書



藤 島 神 社

御祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
由 緒 当神社は延喜式尾張121座の一杜に列せられ、天武天皇の白鳳4年(676)の    創建と伝えられる歴史を有する古社である。
御神徳 古来より特に安産、虫封じの御神徳高く各地より多くの参拝者が訪れている。

社頭掲示板



藤島神社

由緒
当神社は、延喜式尾張121座の一社に列せられ、天武天皇即位5年の天武5年(676年)の創建と伝えられ、千三百有余年の歴史を有する古社である。 伝説によれば太古の昔、此の辺一帯は洋々たる蒼海にして、所々に洲が点在し其の一つが藤嶋であったと伝えられ、古くはこの地を藤島と呼んでいた。
織田、豊臣時代の頃には藩士等の崇敬篤く、徳川時代の頃中沢百太郎など七勇士が当神社を殊の他尊崇し、その勢力を強固にしていった。
明治元年、明治天皇東京遷都に際し、植松少将勅使として当神社に参向し、金幣を奉ぜられた。
大正10年県社に列せられたが、戦後は社格廃止とともに宗教法人藤島神社として新たなる歩みをするところとなった。そこで逸早く氏子を始めとして、御神徳を景仰する崇敬者などによって奉賛会を結成し、社殿その他の改修工事が行われ今や広大無辺な御神徳を慕う人々は遂年その数を増している。

社頭掲示板



藤島神社

藤島は不知之萬と訓べし○祭神詳ならず○海東郡秋竹庄秋竹村に在す、(府志)
神位
国内神名帳云、從三位藤島天神、

神社覈録



郷社 藤島神社

祭神 伊知伎島姫命
創立年代詳ならずといへども、廷喜式内社にして、奉唱國内神名帳に、「從三位藤島神社、天神、一作正四位上、津島天王祠是也、但津島社傳神階異之、按、秋竹村有藤島明神、是歟」と見え、尾張志亦「今秋竹村に坐して藤島明神と申す」といへり、明治維新、御東幸の際金幣若干を奉納せられ、同5年郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿、祭文殿等を具備し、境内地1318坪(官有地第一種)あり、境地水田に兀立せる丘陵にして、神木四囲、自ら神地たり。

明治神社誌料



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