田中の小社。こんもりと目立つ。 高島高信社領寄進したが、その後、衰退。 慶長4年、高島泰監が再興。 |
宇伎多神社 本社ハ延喜式内社卜称セラレ、社域附近今猫神田佃式田布衣田禰宜田等ノ地名残レリ。文暦元年3月、近江守佐佐木信綱ノ三男高島治郎左工門高信本郡南部ヲ領シ大溝城二住ムヤ、篤ク本社ヲ崇敬シ、嘉禎3年社域ノ周囲ナル宇伎多ノ地ノ水田ヲ七十石寄進シ、例祭ニハソノ家士ヲシテ奉仕セシム。然ルニ永正5年8月高島玄蕃頭盛遠淺井氏ノ來攻ヲ受ケ、大溝城ヲ退キ平井城二遷ルアリ。且ツ元亀天正ノ兵乱相総ギ、神領ハ掠没セラレテ奉仕スル者モナク、社頭ハ一時衰頽二節シタリ。降リテ慶長4年3月、高島信遠ノ四世ノ孫高島内記泰監コノ地二移住シ、郷士トナリ、神主ヲ奉仕シ、同年8月コノ地ノ領主若狭守京極高次ノ社殿修理並二祭祀料ノ寄進アリ。是ヨリ社頭旧二復セリト云フ。安永4年8月社殿ヲ再建ス。 神社明細書 |
宇伎多神社 式内社(現在論社とされる)で嘉禎3年大溝藩主高島治郎左エ門高信小田七十石を寄進し、更に4世の孫高島内記は、郷土となって神主を奉仕した。 滋賀県神社庁 |
宇伎多神社 大昔、寛文時代に、沖田集落にある宇伎多神社は、八田川の水害により流された歴史を持っている。そのとき、「二度と水に流されないように」と、沖田から2km先の横井川集落にある稲荷さんに神霊を預け、村人が当番で、宮守を勤めた。現在、宇伎多神社は沖田集落へ帰還されている。 高島市の伝承・言い伝え |
宇伎多神社 宇伎多は仮字也 神社覈録 |