三重生神社
みおうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】三重生神社 二座 近江国 高島郡鎮座

   【現社名】三重生神社
   【住所】滋賀県高島市安曇川町常盤木1239
       北緯35度20分38秒,東経136度0分33秒
   【祭神】彦主人王 (配祀)振媛
   【例祭】4月18日 例大祭
   【社格】
   【由緒】創立年月日不詳
       由緒不詳

   【関係氏族】三尾君
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「御霊権現」「三ツ子の母の社」と称していた
   【社殿】本殿三間社流造
       拝殿・社務所

   【境内社】気比神社・足羽神社・垂井神社

近くに彦主人王の陵墓傳承地となつている王塚古墳があり。
継体天皇出生に関する傳承の地であり、南の鴨川流域を中心とする三尾君との関連も深い土地である。


三重生神社

式内社 三重生神社
御祭神 彦主人王・振媛
境内社 足羽神社・気比神社・垂井神社
例祭日 4月29日
縁起 彦主人王は、応神天皇の五世の孫にして、よく神道を修められ、三國の坂中井から垂仁天皇七世の孫振媛を迎えて妃となさいました。当社はこの二神を奉祀しています。
王は、余暇に山狩や河漁を楽しまれたと伝えられています。
振媛が三子をご出産になるとき、彦主人王の夢に三尾大明神のお告げがあり、「この度天より授かる子は天孫の大いなる迹をふむべき男子なり」と。そこで山崎社(三尾神社)の拝殿を産所として南天に祈られ、また、王も自ら北の仮社で北極星にお祷りされたので、彦人、彦杵、彦太の三子を安産されました。
故にこの社を三重生神社と呼ばれるようになり、今に安産の神として崇められる由縁です。
御子が五歳のとき、彦主人王が薨られたので振媛は彦杵と彦太をお連れになって越前高向館にお帰りになり、養育されていましたが、13年後、振媛も薨られました。二柱とも2月18日が御命日であり、明治維新までこの日を例祭日としていました。薨長男彦人王(天迹部皇子)は、この地で成長され?史(刺史)となって北越五ヶ國を治められました。三男彦太尊は、後の二十六代継体天皇(男大迹の天皇)となられました。
勅使の詠まれた御歌(古来勅使参向の社)
  近江なるうしの祭りのこととへば 如月なかば雪は降りつつ
  近江のやうしの祭りのこととへば 志らゆう花を雪とまかへて

社頭石碑



三重生神社

応神天皇五世ノ孫彦主人王、高島三尾ノ別業ニマシマシテ漁猟ヲ以テ常ノ樂ミトナシ給ヒ、終ニ別業ニ薨シ給フ。其ノ尊骸ヲ此地ニ葬り奉り、社ヲ建テ齋祀セリト曰、振媛ハ垂仁天皇七世ノ孫、越前國坂中井ノ人ノ女ニシテ彦主人王ノ妃ナリ。彦主人王ノ薨後、御子継体天皇ヲ奉シ、越前國坂中井ニ帰リマシマシ、其地ニ薨シ給フ。其霊ヲ此社ニ合祀セルナリ。妃一時ニ三子ヲ生ミマセシニ因リテ、所ヲ三重生郷ト云ナリ、故ニ世人此社ヲ三子母ト云ヒテ安産神トス。例年祭典ニ越前坂中井ノ方ニ向テ奉幣ノ式アリ。二霊祭祀ノ後、毎年勅使ノ事アリ。神幣ヲ納メ給ヒシナリ。

神社明細書



三重生神社

創祀年代不詳であるが、式内三重生神社これである。応神天皇5世の孫彦主人王が当地で薨じられたので、社を建て斎祀された。振媛は彦主人王の妃で、後合祀された。

滋賀県神社庁



三重生神社

三重生は美倍布と訓べし○祭神詳ならず〇三重生荘三重生村に在す、(與地志、』光陶云、今御霊権現といふ、

神社覈録



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