至徳2年(1385)、大和国から勧請され、道祖神として崇敬されてきた。 当社が大寸神社であるとする根拠は、森神社の社号は、大寸神社の誤字であるとされる。 |
由緒 至徳二年(1385年)大和国より勧請して産土神として奉祀。以来道祖神と称していたが、明治元年(1868年)に現在の社号に改められた。明治9年村社に指定、大正十四年神饌幣帛料供進に指定された。 明和元年(1764年)よりのことを書いた「森村永代年表記」によると寛政4年(1792年)本殿再建・文化5年(1808年)正面石垣造営・慶応2年(1886年)拝殿再建・明治10年(1877年)鳥居建立とあり、屋根の葺替えは明治4年より十年毎に行われている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
森神社 御祭神 八衢比古神 八衢比賣神 久那戸神 御神徳 天孫瓊々杵尊の御降臨に際して日向の高千穂の峰に御先導申し上げられた神で、この御三神は交通の安全を守り病気災難を除け田園守護の神、又、縁結びの神として崇められている。 由緒 至徳2乙丑(皇紀2045)大和国より道祖神を勧請し産土神として奉祀した。 明治元年今の社号に改め大正14年11月4日に村社に指定された。 社頭掲示板 |
森神社 至徳2年大和国より勧進して産土神として奉祀、以来道祖神と称していたが、明治元年に現在の社号に改められた。(社蔵記録)明治9年村社、大正14年神饌幣帛料供進社に指定されている。明和元年よりのことを書いた「森村永代年表記」によると、寛政4年本殿再建、文化5年正面石垣及び石橋・文化7年東側石垣造営、慶応2年拝殿再建、明治10年鳥居建立とあり、屋根葺替は明治4年より10年毎に行われている。また境内社の饗庭神社は往古は佛堂として信仰されていたが、明治11年無格社に勧請された。この神社は饗庭氏の祖先を祀ったもので、饗庭大明神と称した。 滋賀県神社庁 |
森神社のタブノキ(ダモノキ)(森) このタブノキは、暖地性植物で温帯性殖物が多く見られるこのあたりでは大変珍しく貴重な存在と考えられています。幹周り5.9mのこの巨木は推定樹齢千二百年(奈良時代末期)と云われています。延長5年(927)の「延喜式神名帳」では「森(大寸)神社」の名前が記されています。また明治28年(1895)の「古社取調書」の中に「森神社境内には常緑樹が生い茂り老樹はどれもが周囲二丈(6m)に及ぶ」とあり、古くからの神社であったと想像できます。現在巨木のタブノキは神木として崇められ、また新旭町の銘木の一つに数えられています。「滋賀の銘木誌」参照。 新旭町教育委員会 社頭掲示板 |
親王さん(貞隆親王さん)(森) この地は森神社のお旅所にあたり、境内社である饗庭神社はもとこの所にありました。 祭神は饗庭氏の祖といわれる貞隆卿です。貞隆卿については「明治14年、御陵調に付お届書」によると「昔貞陛親王が御幸の時村人の庭にて饗(酒食をもてなす)され饗庭庄と申す。亡なられ御陵に収められ、その塚(古墳)があり」といった皇族説があります。ここから西への道が大師山麓の墓地に通じ、この三昧を「御所の森」といいます。更にまた }東にも道があり、この道を「御幸道」また「親王道」ともいいます。この地は条里制の十四条四里十三坪にあたり七反の屋敷を持つ貞隆寺があった所とされています。 新旭町教育委員会 社頭掲示板 |
大寸神社 大寸は於保牟良と訓べし、(寸は村の略字也、当國蒲生郡長寸神社、其外この帳中に村を寸と書る例多し、そを諸馴寸の字に泥て、おほね、おほえ、おほに、おほれなどあるは、みな惑へるの誤なるへし、) ○祭神大村氏其神歟○在所詳ならず 姓氏録、(右京神別下)大村直、天道根命六世孫若積命之後也、同、(和泉国神別)大村直、紀直同租、大名草彦命男棟彌都彌命之後也、 類社 伊賀國伊賀郡大村神社 神社覈録 |